natsukiさん、モニター引き受けてくださってありがとうございました! 新刊もお手元に持っていただけてるみたいで、嬉しいですv
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かわいいだとか、綺麗だとか、女性が好みそうな台詞を言うのはエドガーの得意分野だ。
とはいえ、彼が心底からかわいいと思えるものなどいくつもない。
最たるものは、彼の最愛の女性であるリディアだ。結婚して1年経つが、いまだに初々しさを失わないリディアは、本当にかわいい。
そして、つい二月ほど前に、リディアのかわいさに迫るほどの存在が、アシェンバート邸にやってきたのだった。
「エドガー、帰ってたの?」
昼食の用意をしていたのだろう。
可愛らしいエプロンをつけたリディアがやってきて、部屋の中にいる自分を見て驚いた声を上げる。
今日は平日だ。本当なら会社にいるはずの時間なのだから、リディアの台詞はもっともだった。
彼女の声音に多分の呆れが混じっているのには気づかないふりをして、彼は愛しい奥方に「ただいま」と満面の笑みを振りまいた。
近づいてきたリディアの腰を抱き込んで、今の今まで熱心に視線を注いでいた可愛らしい存在―――生後二ヶ月になる我が子を二人で覗き込む体勢を作る。
すやすや眠る我が子を見て、可愛いねえと呟く時、ついついでれっとしてしまうのはもう仕方がないことだろう。
そんなエドガーを見て、リディアは呆れた顔をしながらも、くすくすと幸せそうに笑ってくれるのだから、改めるつもりにもならない。
「毎日聞いてる気がするけど……仕事はいいの?」
「今は昼休みだよ、リディア」
とはいえ、昼休みに気軽に帰ってくるには遠い距離だ。社長権限で時間については大幅の融通を利かせていることをリディアは知らないから、口には出さずとも「大丈夫なのかしら」という顔をする。
そんなリディアを見て、また我が子を見て、エドガーは緩みきった瞳で「可愛いなあ」と呟く。
リディアがこちらをちらりと見て、そしてくすくすと笑い出した。
軽く噴き出すようにして彼女が笑うものだから、エドガーは柔らかい髪を梳きながら、不思議に思って首を傾げる。
「ん?」
「なんでもないわ。エドガー、ご飯は?」
「車の中できみの弁当を食べたよ」
「じゃあ、お茶を淹れましょうか。この子のこと見ててね」
「もちろん。でも、今日はニコは?」
「二日酔いみたいよ」
あの猫……と苦るエドガーに「独り占めできていいじゃない」というと、彼は「それもそうか」と頷く。
すっかり親ばかだ。自覚はしている。
リディアが席を外している間も、ベビーベッドの柵に顎を乗せて、でれでれと(幸い顔はそこまで崩れていないが)娘の顔を眺めてしまう。
夢も見ていないだろうというくらいぐっすりと眠っている時のリディアの寝顔と、よく似ている気がする。
たまに遭遇する、母子そろっての昼寝タイムを思い出し、エドガーはいっそう頬を緩ませる。
そんなエドガーを、お茶を淹れて渡してくれたリディアは苦笑を浮かべて見ていた。
「もう。すっかり骨抜きね」
「だって、きみと僕の子どもだよ? しかも可愛い女の子だ。心を奪われない方がおかしい」
華奢な手をとって、ぎゅっと握る。照れたように頬を染めるものだから、思わず軽く口づけた。
「もう……」
「そういえば、お帰りのキスをもらってない」
「ただいますら言いにこない薄情者にはあげないわ」
ぷい、と横を向くリディアに、エドガーは思わず目を瞬かせて、そして破顔した。
身体ごとリディアに向かい合い、ぎゅうっと全身で彼女を抱きしめる。小さく悲鳴を上げながらも、抵抗することなく腕の中にいる可愛い人に、頬を寄せて思わず笑った。
「やきもち?」
「……そんなんじゃないもの」
「僕がこの子に向ける愛情は、そのままリディアに向いてるんだよ。愛しい奥さんとのこどもだからこそ、この子のことがこんなに可愛いんだ」
抱きしめながら、あやすようにしてやさしく揺する。リディアは完全に力を抜いて、ことん、と頭をエドガーの肩に落とした。
「知ってるわ。あたしも同じよ」
それでも時々はこうしていたい、と。
声に出して言われたわけではないけれど、子どものように額をすり寄せてくるリディアがこの触れあいを望んでいるのだとわかる。
こんなふうにリディアが独占欲を出してくれるようになるなんて、嬉しい誤算だ。
可愛らしい我が子よりも、もっと可愛いリディアを腕に抱く。
そろそろ会社に戻る時間だけれど、エドガーは「まあいいか」と結論づけて、この温もりを心ゆくまで堪能することにした。
浴室なのに、らぶくもえろくもならなかった! ていうか舞台が浴室じゃない!←
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カタン、とエンターキーを押して、リディアは身体の凝りをほぐすように伸びをする。
エドガーと結婚をして半年。伯爵家での過ごし方も、夫人としての振る舞い方にもなんとなく慣れてきたリディアは、エドガーが経営している会社の、簡単な事務の仕事をさせてもらっている。
妖精博士としての仕事はもちろんこなしているが、それだけでは時間が余りすぎてしまうリディアが、エドガーに頼み込んで回してもらった仕事だ。
仕事をするくらいなら僕をもっと構ってくれと言っていたエドガーだが、繁忙期になって帰りが遅くなると「あたしが手伝って、あなたの帰りを早くした方が一緒にいる時間が増えるわ」というリディアの言葉に、こうして仕事を渡してくれるようになった。
エドガーが家にいる時は触らない、という条件で得た仕事と、ついでに家計簿もエクセルに入力し終わると、さすがに目が疲れている。
時計を見ると昼の2時を回っている。
「……いけない、忘れてた」
今日は追加で洗濯機を回していたんだった。
そろそろ毛布を出そうと思い、使う前に一度軽く回しておいたのだ。
伯爵家には住み込みの使用人が何人かいるため、本当ならリディアが家事をやる必要はないのだが、夫婦二人分のものだけは自分でやるようにしている。
今日は天気もいいし、今からでも干せばほわほわの仕上がりになるだろう。
パソコンをシャットダウンすると、リディアはいそいそと部屋を出る。
今日は何時に帰ってくるかしら。
夕ご飯のおかずは何にしようかしら。
そんなことを考えながらランドリーの扉を開けると、下着一枚しか身につけていないエドガーが、洗濯機の中を覗き込んでいた。
視界に入った情景の意味がわからず、しばらく硬直してしまう。
「あ、リディア。この毛布洗い終わってるみたいだけど、出してもいいかな」
平然とそんなことを言ってくる夫にこくんと頷いて、ようやく喉を震わせた。
「な……何してるの?」
「え? シャワーを浴びようと思って、いったん帰ってきたんだ」
「脱衣所はあっちでしょ!」
「うん、まさかリディアが覗いてくれるとは思ってなかったから」
輝くような笑顔でいる夫にが、リディアをからかいたくてウズウズしているのを感じて、リディアはぷいっとそっぽを向く。
「帰ってきてるなんて知らなかったんだもの。あたしが用があるのは、あなたの下着姿じゃなくて、そっちの毛布です」
「リディア、耳が赤い」
視線を外したのは失敗だったらしい。
すい、とエドガーが近寄ってきて、耳朶にちゅっとキスをする。
耳を押さえて、自分でも赤くなったと自覚するくらい顔を火照らせたリディアは、もうっ、と声を上げる。
「いつまでもそんな格好で立ってないで、シャワー浴びてきてちょうだい!」
「リディアも入ろうよ」
「絶対にいや!」
じりじりと扉のところまで後退して「毛布出して、脱いだ服をいれて」と示すリディアに近づこうと試みたエドガーだが、初心な妻が本当に廊下まで出て行きそうな気配を感じて、残念そうに息をついた。
「せっかくいいシチュエーションで会えたのに」
「どこがよ……」
目に入った姿が全裸でなくてよかったと思うが、下着一枚というのもなかなか間抜けな構図ではないかと思う。
「僕としては、下着姿のきみと遭遇したかった」
「ねえ、そろそろ本当に風邪ひくわよ?」
「風邪をひいたら裸で添い寝してくれる?」
「……ヘンタイ」
じと、っと自分を見る妻に、エドガーはくすくすと笑う。冗談だよ、と言わないところがくせ者だと思う。
下着もここで脱ぐつもりでいるらしいと気づいたリディアは、毛布を取りあげて出口へ向かう。
「あ、エドガー」
「うん?」
「今日は何時に帰ってくるの?」
「今日は早いよ。定時に上がれる」
そう、とリディアは笑う。自分がどれほど嬉しそうに顔を綻ばせたか、という自覚のないリディアは、「リディア」とエドガーに呼ばれて、軽く首を傾げた。
「久しぶりに外に食べに行こうか。夕飯の準備はまだだろ?」
「うん。楽しみにしてるわ」
「おしゃれして待っててくれ」
外でのデートなんて久しぶりだ。家でゆっくりするのも好きだけれど、突然の予定に心が躍る。
出かける時間までにあれをして、これをして、と考えながら、リディアは上機嫌に笑みを浮かべた。
昨日、初めて居酒屋さんでのバイトをしてきました!
おいしそうな料理がいっぱい並ぶんですよね……じゅるり。
忘年会シーズンですが、胃と肝臓を大切に!
よく暖められた部屋には控えめな音量で音楽がかかっており、柔らかな調べがエドガーの心を慰めるようにたゆたっている。
けれど、やはり耳につくのは、ぱら、という乾いた音で、エドガーはふとため息をついた。
時計を見ると、もうすぐ午後の10時になるところだ。リディアは忘年会と銘打たれた飲み会へ行っており、まだ帰ってくる気配がない。
親しい女友達と飲むだけだから、と説得されたから、エドガーはこうして家で大人しく待っている。
結婚してからというもの、リディアがこうして夕飯を友達と食べに行くことは本当に珍しいことになった。
束縛をしているつもりはないのだけれど、結果的に彼女を家の内側に押しやっているのだったら、エドガーは自分の態度を改めなくてはいけない、と思う。
彼女はもう自分のものなのだから、余裕なく、バカみたいにリディアを囲って守る必要はもうないのだ。
リディアの細い指に結婚指輪がはまってからは、くっついてくる虫の数もだいぶ減った。
それでもゼロにならないことは腹立たしいことではあるけれど、今日はロタがしっかりガードをすると請け負っていたし、大丈夫だろう。
エドガーはまたちらりと時計を見る。席の予約は9時半までと言っていた。10時を過ぎても音沙汰がなかったら、一度連絡を入れようか。
あと数分の我慢、と、ぼんやり眺めているだけの雑誌をまたぱらりとめくる。
リン、ゴーン。
チャイムの音に顔を上げる。ちょっと期待したけれど、リディアならわざわざチャイム鳴らすことはない。
誰だこんな時間に、と、少し気分を害しながらインターホンに向かうと、聞こえてきたのはロタの声だった。
「ロタ? どうしたんだ」
「いいから開けてくれよ。リディアがもうぐでんぐでんでさあ」
眉をひそめて、ロックを外す。ついでに玄関を開けて歩いてくる二つの影を見やると、リディアはロタにもたれかかりながら、ふらふらと危なっかしい足取りで歩いていた。
靴を足にひっかけて、慌ててリディアに駆け寄る。もこもこしたコートに包まれた彼女を抱き取ると、リディアはふにゃんとエドガーの胸におさまった。
「エドガー……ただいまぁ」
「おかえり。寒いから、とりあえず中に入ろう」
「ろた、ロタも、寄ってって?」
やれやれ、と肩を竦めるロタに、リディアが手を伸ばす。きゅ、っと袖を掴んだ手をやんわり外して、ロタはにっと笑う。
「タクシーを待たせてるんだ。こんな時間にお邪魔するのもなんだし、また近いうちに遊びに行こうよ」
「うん……今日は、ありがとう」
ふにゃ、と笑うリディアを抱き上げて、エドガーは首を傾げる。
「ロタは飲まなかったのか?」
「飲んだよ。でもさめた。みんなけっこう加減考えずに飲むんだよなあ」
酔っぱらった面々を順に送り届けてきたというロタに、ロタが飲み慣れすぎてるんだ、と呆れると、彼女はそうかもね、と笑う。
「助かった」
「いいってことよ」
「あ……ろた、タクシー代……」
横抱きにされた格好で身を捩るリディアを制して、ロタに埋め合わせはまた今度、と言い切る。
外は寒いし、運転手も待っているだろう。ロタも異存はないようで、またな、とリディアに笑いかけた。
軽く手を上げて去っていくロタが門の扉から出て行くまで一応見送ってから、早足で家の中へと向かう。
暖かい空気にほっと息をつき、リビングのソファにリディアを下ろす。とろんと目蓋を落としている彼女の頬を撫でると、頬のあたりだけやけに熱を持っていた。
「気持ちい……」
そう言って、エドガーの手に重なったリディアの指先はとても冷たい。
ずいぶんと酔っているようすに、エドガーはちょっと心配になる。
「リディア、気分は? 気持ち悪くない?」
「ううん、大丈夫。ぼーっとしちゃうけど……」
いつもよりもゆっくりとした喋り方。ぽわっとした眼差し。
可愛いなあと思ったから、エドガーは彼女に顔を寄せた。
赤くなった頬に、目蓋に唇を寄せて、リディアがふにゃりと嬉しそうな笑顔を見せると、エドガーはぎゅっと彼女を抱きしめた。
抱きしめながら、マフラーやコートを脱がせていく。
「水を持ってくるよ。ちょっと酔いを覚ました方がいいな、シャワーも浴びたいだろ?」
ん、と不明瞭な声を上げるリディアから手を放そうとしたとき、ニットに包まれたしなやかな腕がエドガーの首に回った。
身を屈めさせるように引き寄せて、抱きついてくるリディアの腰を、エドガーは反射的に支える。
ますます密着した身体をはがす気になるはずもなくて、数秒逡巡したのち、結局彼はリディアを膝の上に抱え上げてソファに座った。
「どうしたのリディア。飲み会は、楽しくなかった?」
「ううん、ひさしぶりにみんなと話せたし……結婚式、以来の子も、何人かいて」
否定しながらも、その声はなんだか拗ねているようだった。
遠慮のない間柄の女同士で交わされた会話に、なにか彼女の機嫌を損ねるような内容があったのだろうか。
珍しくべったりと甘えてくるリディアの頭をやんわりと撫でると、リディアは心地よさそうに息をついた。
「浮気に、注意しなさいよ、て」
「は?」
「みんなして、そんなことばかり言うんだもの……」
肩口に額をすり寄せてくるリディアの声は、完全にふて腐れていた。
酔って幼くなっている動作と、甘えるような声音に、エドガーは悪い気はしなかったけれど、ちょっと苦笑する。
「メンバーは誰がいたんだっけ」
「ロタと…………ううん、内緒。エドガー、怒るでしょ?」
「怒らないよ」
うそ、と決めつけてくすくすと笑うリディアの酔いはまだまださめないらしい。
少しでも水を飲ませた方がいいんじゃないかな、と、明日なるであろう二日酔いを心配しながら、エドガーはリディアをやんわりと撫でる。
手のひらを滑らせるたびに、リディアの目元がふんわりと緩む。このまま眠ってしまいそうだなとも思いながら、エドガーは彼女の額に口づけた。
「ごはん、なに食べたの?」
「大したものは食べてないよ。リディアの手料理が恋しかった……けど、毎日作るのも、大変だよね」
「おいしい、って、食べてくれるから、嬉しいわ」
身じろぎをするリディアの、ふわふわの髪の毛が頬を撫でてくすぐったい。
「明日は、エドガーの好きなもの、作るわ」
「暖まるものがいいな。明日は雪が降るそうだし」
「つもるのかしら。運転、気をつけてね?」
「大丈夫だよ、距離はそんなにないし。明日は外回りの仕事もないはずだから。リディアも、出かけるんなら暖かくしていくんだよ」
「ん……明日は、買い物に行くくらい、かしら。なにか欲しいもの、ある?」
「とくには。重いものを買うなら、週末に一緒に行くから、ちょっと待ってて」
「浮気しちゃだめよ?」
「しないよ」
脈絡のない会話に苦笑して、ぎゅっとリディアを抱きしめる。髪をかき上げてこめかみをあらわにし、そこに唇を落とすと、そろりとリディアが見上げてきた。
口づけを待っている顔。エドガーは目を細めて微笑し、リディアにやんわりとキスをした。
唇を啄んで、綻んだのを見計らってそっと内部に進入する。
咥内は熱くて、なんとなくアルコールの香りが残っているような気がした。
「……お酒、くさい」
「僕は飲んでないよ」
「たばこも……」
「吸ってないって」
眉をひそめるリディアに笑うと、リディアがぺしっと彼の腕を叩いた。
「シャワー浴びる」
「もうちょっと待って。今行ったら倒れるよ?」
腕から抜け出そうとするリディアをとどめると、今までべったりとくっついていたのが嘘のように逃れたそうに身じろぎしだした。
大人しく腕の中に収まっているよりは、恥ずかしがって抵抗を示す方が見慣れたリディアの動作ではあるけれど、ちょっと面白くない。
酔いが覚めてきたのかな、と思いつつ、嫌がらせのように拘束の腕を強めると、リディアが「エドガー」と呻いた。
「どうしたの?」
意地悪そうに微笑むエドガーを、リディアはほんのり目元を赤らませて、きっと睨む。
「……お、お酒、くさい?」
向けられた視線に対して、その言葉は弱々しくて、エドガーはふと破顔した。
「いい匂いだよ」
「たばこ、とかも」
「気になるなら脱ぐ?」
酒の匂いはともかく、たばこの方は衣服についているだけだろう。
嬉々としてニットの内側に手を差し入れると、ひんやりとした感触が伝わったのかリディアが間抜けな悲鳴を上げた。
「いまの可愛い」
「な、なにするの!」
「酔いは覚めたみたいだね?」
アルコールとは違う原因でじわじわと顔を赤らめていくリディアに、にっこりと笑いかけて、腰をがっちりと抱きしめたままもう一方の手を動かした。
エドガー! と叫ぶ可愛らしい声がやみ、代わりに高らかな平手の音が響くのは、もう少し先のことである。
現代新婚さんパロです。新婚さんになる前日のお話。
拍手コメントでいただいたネタ(?)を使わせていただきました…!
インスピをくださってありがとうございました><
結婚式を明日に控えた日の午前、リディアはそわそわした気持ちを抱えながら、馴染みになった豪邸の一室にちょこんと座っていた。
ここがもうすぐ自分の住居となるのがまだ信じられない。エドガーとの生活も、実質的にセレブの仲間入りを果たすことも、まだ全然実感できていなかった。
雲を掴むような話だったはずなのだ。手に掴んだものがどんな形になるのか、想像できないのは当たり前のように思う。
エドガーはそんなリディアを見守りつつ、実際には早く実感を持ってほしいと、少し焦れているようだけれど。
こんこん、とドアがノックされて、リディアはぱっと顔を上げる。
「リディア、お茶が入ったよ」
「ありがとう。……あ、手伝うわ」
「お客さんでいれるのは今日までなんだから、もてなさせてくれ」
立ち上がりかけたところをやんわり制されて、またぽすんと柔らかなクッションに身をゆだねた。
エドガーの私室の、このソファはリディアのお気に入りだ。丸いフォルムによくきいたスプリング。そこに弾力のある円筒形のクッションが置いてあるのがまたいい。
もうすっかり癖になってしまった動作でクッションを膝に乗せて手慰みに弄っている。リディアがエドガーの優雅な動作に見惚れている間に、紅茶が綺麗に色づいた。
「さあどうぞ。ミルクはいる?」
「ええ。あ、お砂糖はいいわ……あの、ごめんなさい、お菓子も」
「今日くらい、いいんじゃないか? ひとつふたつ食べたところで、ドレスがはいらなくなるなんてことないよ」
くすくすと笑いながら、エドガーが隣に腰掛ける。むう、とテーブルの上に乗った可愛らしい焼き菓子を見ながら、リディアはしばし葛藤した。
もともとお菓子がなければ生きていけない、なんてことはないのだけれど、ウエディングドレスを綺麗に着こなすために、ここ数週間リディアは完全にティータイムのお菓子を絶っていた。
口にするのはもっぱら食後のゼリーやシャーベットだけなので、そろそろ口寂しくなってきているのは確かだ。
けれど。
「……エステシャンの方と、結婚式までは我慢するって約束したの」
だから我慢、と。自らを戒めるようにテーブルから身を引いてソファに深く埋もれる。
エドガーの指先が前髪をはらって、あらわになった額に彼の唇が落ちてきた。
「肌の一番の天敵はストレスだよ?」
「一番のストレスは甘いものが食べられないことじゃなくて、緊張だもの」
呟いて、温かい紅茶をこくんと飲む。
エドガーが選んでくれた品種は、砂糖を入れなくても十分に甘く感じる上等の紅茶だ。おいしさに眦を緩めていると、肩を引かれてゆっくりと抱き寄せられた。
「うまくいくよ。最高の結婚式になる。リディアも頑張ったし、ポールやロタは今も準備を続けてくれてるからね。だから大丈夫」
包まれて宥められて、ほっこりとしながら微笑んだ。
結婚式には友人たちも来るけれど、エドガーつながりの上院議員や、リディアにはいまいち見分けのつかないお偉いさんもたくさん来るらしい。
リディアの今までの生活とはまったく違う世界へ飛び込んでいくことに、不安も緊張もあるけれど、実際は言葉にするほど深刻に思っているわけでもない。
大丈夫、と言ってくれるエドガーが隣にいれば、リディアはなんとかやっていけると思っている。
「……晴れるといいわね」
「きみが隣にいてくれれば、天気なんて関係ないな」
こめかみにキスを受けて、くすくすと笑う。
紅茶が零れちゃう、と抗議するまで、しばらくじゃれつくような戯れが続いた。
「あ、ねえエドガー。ブーケトスなんだけど、やっぱり前を向いたまま投げようと思うの。後ろ向きで投げてみたんだけど、全然飛ばなくて」
「そんなすごく飛ばす必要はないよ?」
「わかってるわよ。でも、1メートルも飛ばないのよ? 地面に落ちちゃうわ」
それは困ったね、と笑いながら、エドガーがふと首を傾げる。
「サプライズでロタにあげるっていう話はどうなったの?」
「だってロタ、いらないって言うんだもの」
「まあ、彼女ならそう言うだろうけど……残念だな、からかおうと思ってたのに」
「……あなたがそういうことするから、もっと嫌がるんじゃないかしら」
「ロタの神経がそんなに細いわけないだろ?」
言い切るエドガーを、ちょっとまじまじと見てしまう。
エドガーとロタの関係は喧嘩仲間とでも言うのだろうか。ロタが絡むと、エドガーがいつもよりも大人げなく振る舞うので、ちょっと楽しい。
「エドガー、ロタのこと好きよね」
「……リディア、気持ち悪いこと言わないでくれ」
「だって、仲よしじゃない」
大好きな友達と大好きな人の仲がいいのは嬉しい。にこにこと笑うと、エドガーはひとつ息をついて肩を竦めた。
「正面を向いて投げるなら、目隠ししてあげるよ。それなら後ろ向きとそんなに変わらないんじゃないかな」
「わかったわ」
それでね、あとはね、と、話を続けようとするリディアにエドガーはちょっと苦笑する。リディア、と柔らかく名前を呼ばれて、視線を合わせた。
「明日に備えてリラックスするためにって、ロタたちがくれた時間だろ? あんまり気負わないで」
「だって……考えないなんて無理だわ」
まあ、そうだろうけど。ひとつ頷いたエドガーは、リディアの気を逸らそうとしたのか、不意に違う話題を振ってきた。
「ブーケトスと言えば、リディア、ガータートスって知ってる?」
ちょっとやってみたいと思ってるんだけど。と、なんだかきらきらした顔で微笑まれて、リディアはちょっと警戒した。
ふたりの結婚式だし、リディアの提案はほとんど受け入れてもらっているから、エドガーがやりたいというのなら叶えてあげたい……けれど、彼は突飛なことでも普通に言い出すから、二つ返事では頷けない。
「ガーターって……あの、……下着の?」
「結婚式で使うのは、装飾用のガーターベルトだよ。ストッキングの上につけるんだって」
「つける、の? え、でも、トスって、投げるんじゃ」
身につけていたら投げれないではないか。困惑するリディアに向かって、だからね、とエドガーは楽しそうに言う。
「新婦が身につけてるガーターを、新郎が取ってあげるんだよ」
「…………」
「ドレスの中に潜り込んで、口でベルトを外すのが正式らしいけど。手だけ入れて手探りで脱がせるっていうのもそれはそれで……」
「絶対! やりません! から!」
顔を真っ赤にさせて爆発したリディアに、エドガーは「えー?」と可愛い子ぶった声を上げる。これは完全にからかっている態度だ。
にやにや笑いのエドガーを、リディアはできるだけ怖い顔で睨みつける。
「アメリカの伝統的な儀式だよ?」
「ここはイギリスなの!」
「イギリスでだって、やってるカップルはいるけどな」
どうしてもだめ? と首を傾けるエドガーに、リディアは力いっぱい頷く。
常識外れというほど度を超した催しではない、とは思う。浮き名を流してきたエドガーがいかにもやりそうなこと、と笑って見てくれる人もいるだろう。
けれど、リディアは嫌だ。というか、無理だ。そうとうに奥手な彼女にとってはエドガーからのキスだって人前では遠慮したいと思うのに、結婚式でドレスの中に潜り込まれるなんて、耐えられるわけがない。
エドガーだって、リディアが絶対に嫌がるとわかってるのに、どうしてそんなことを言い出すのだろうか。
ぐるぐると考えている内に羞恥と興奮で涙が出てきたらしい。視界が曇ったと思ったら、エドガーの慌てた声が聞こえてきた。
目を瞬かせたら、ぽろり、と頬に涙が落ちた。
「リディア、心配しなくても無理強いなんてしないよ。泣くほど嫌だったの?」
「い、嫌だけど……これは、違うの」
ぎゅっと抱きしめられた腕の中で、すん、とはなをすする。そうしてこっそり反省した。
「あたし、あなたに頼りっきりなんだわ……」
「全部、任せてくれて構わないよ。君が頼ってくれるのは嬉しい」
「ううん。そんな一方的なの、嫌」
嫌だけれど、しばらくはエドガーに甘えさせてもらうしかないだろう。
エドガーとの結婚を決めたことは、リディアにとっては大変なことだった。大変な決断を実践するのは、きっともっと大変なことになるだろう。
彼がいてくれるから大丈夫。そう思って歩んできたリディアは、本当に大丈夫になったわけではなくて、大丈夫だとずっと自分に言い聞かせてきているのだ。
だからこんなにも脆い。ちょっとからかわれて、不安を煽られただけで泣いてしまうなんて。
逞しい胸に凭れながら、ごめんなさい、と心の中で呟く。
「ごめんね」
「え?」
「ケリーとロタが、きみのこと不安定になってるって言ってたんだけど、僕にはそんなふうに見えなかったから。一生懸命に計画してる結婚式のことで、からかうなんて考えなしだった」
ごめんね、ともう一度言われて、リディアは狼狽える。
「あ……あたしのリアクションが、オーバーだったのよ。あんなの、泣くようなことじゃないわ」
「それだけリディアが頑張ってるってことだよ。……ロタたちが休憩を作ってくれたことに感謝しなくちゃね。きみは根を詰めすぎるから」
ぽんぽん、と頭を撫でられて、なんだか気恥ずかしくなる。
いったいどれだけの人に、守られて、優しさをもらっているのだろう。
「いっぱい、感謝するわ」
もぞもぞと動いて、エドガーの腕を抜け出した。穏やかに微笑んでる彼をちらりと見て、はにかんで笑う。
「明日……よろしく、ね。エドガー」
「もちろん。こちらこそ、よろしく」
幸せそうに目を細めたエドガーがそっと顔を寄せ、柔らかなリディアの唇に、触れるだけのキスした。
伯爵と妖精パロ、新婚さんより
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---新婚さん
エドガーの朝は早い。仕事場は車を走らせて15分という近場にあるくせに、毎日6時半には家を出て行く。新妻に絡むことならばいくらでも勤勉になれる彼は、朝を寝汚く過ごして残業を引き受けるより、前日にどれだけ眠ったのが遅くても早くに起き、夕飯をリディアと一緒に食べられるように日々頑張っている。
そんなわけで、リディアの朝も早い。エドガーがいくら眠っていてもいいといっても、寝ぼけ眼を一生懸命こすりながら首を横に振って起き出してくる。そうして夫想いの奥方は、エドガーのために一般家庭に並ぶようなささやかな朝食を作り、彼が「行ってきます」と言って出て行くのを玄関で見送るのだ。
「じゃあリディア、今日も夕食に間に合うように帰ってくるから」
「ええ、でも、お仕事が忙しいなら無理しないでね。先に食べたりしないで、ちゃんと待ってるから」
「ありがとう。リディアも、僕がいない間、気をつけて過ごすんだよ」
何で自宅にいるのに気をつけなくてはいけないのかとも思うが、広すぎる邸宅に一日も早く慣れようと探索している最中に迷子になりかけたり、分厚い絨毯に足を取られて転んだり、飾り大の繊細な彫刻に目を奪われて柱にぶつかったりした過去があるリディアは、ちょっと引きつった笑みを返すことにとどめた。そんな様子を、エドガーはおかしげに見る。
「じゃあ、行ってきます」
大きな手のひらが頬に触れるのを合図に、リディアは瞳を閉じる。唇に軽く触れる感触を残して、エドガーは仕事場に出かけていった。
その日は珍しくリディアが外出着姿で玄関に立ち、寝間着姿のエドガーがそれを見送る位置に立っていた。昨晩遅くに、カールトン教授が熱を出して大学を早退したと、ラングレー助教授から連絡を受けたのだ。
「じゃあエドガー、夕方には帰るから。昼ご飯は一応サンドイッチを作っておいたけど、足りなかったらジェフに何か作ってもらってね」
「せっかくの休日なのになあ……来客の予定がなかったら、僕もついて行くのに」
「もう、メースフィールド夫妻にはお世話になってるんだから、そんなこと言わないの。父さまもたいしたことはないみたいだし、あなたまでわざわざ来ることはないわ」
「ひどいな。家族なんだから、心配するのは当然だろ?」
「気持ちだけ、父さまに届けておきます。あなたのお見舞いは大げさすぎるもの」
子どものようにむくれた顔をするエドガーに、リディアは笑って手を伸ばす。えい、とゆるく頬をつねった。くすぐったそうに笑うエドガーに引き寄せられて、出かけると言っているのに彼の腕の中に収まってしまう。
「リディア、行ってきますのキスは?」
「………行ってきます、は、あたしよ?」
「うん。だから、リディアからのキス」
手持ち無沙汰にエドガーの服に触れながら見上げるリディアを、彼は実に楽しそうに覗き込む。予想外のことを言われたリディアは、ぽかんとした顔のまま固まってしまった。
「新婚夫婦としてさ、出かける前の挨拶は必須だろ?」
にこにこしながら抱きしめる腕の強さを強めてくるエドガーに、リディアは逃げ場を失った気分になる。固まってしまったリディアのことでさえ彼は愛おしげに見守るものだから、リディアから動かなければいつまでもこのままだ。じわじわと頬に熱が集まるのがわかる。
でもだからといって、自分からキスだなんて、………したことはあるけれど、改めてねだられると羞恥心がかって動けない。
結局顔を赤くしたリディアが玄関の扉から外に出たのは、それからたっぷり10分経った後だった。
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