伯爵と妖精、オリジナルなど。コメント等ありましたらお気軽にどうぞv
対象年齢はなんとなく中学生以上となっております(´v`*)
この間の続きっぽく。ちびカイとお母さんが出てきます。
花守の世界観に重要な精霊の説明もちらっと書いてみましたが、書けば書くほど蛇足のように思えてくる罠。わかりにくいよ! と思われましたら、すっぱりと削ってとばしてやってください(´v`)
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花守の世界観に重要な精霊の説明もちらっと書いてみましたが、書けば書くほど蛇足のように思えてくる罠。わかりにくいよ! と思われましたら、すっぱりと削ってとばしてやってください(´v`)
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いくつもある神殿の中心に、ひときわ天井が高く、細長い塔のような建物がある。真っ白に輝く白馨石がふんだんに使われているのはどこの神殿にも共通するものだけれど、天井にはめ込まれた色のついた硝子は、この塔を特別な場所であると主張していた。
ここは大巫女の間。国の中心であり、ふたりの”黒の御子”を産んだ女性の住居でもある。
午前のうちに淡々と家庭教師に出された課題のすべてを終わらせたカイは、すべての付き人を置いて母親のもとへと赴いた。大巫女のもとへ行く時だけは、わざわざまかなくてもひとりになれるのがありがたい。
ひとりになりたい時は、自分でそういった機会をわざわざ作らなくてはいけないカイは、思いつくとよく母親のもとへ出向いた。大巫女の間は”力”に満ちていて常人では立ち入るのにかなりの気力を使うようだが、彼は気軽に訪ねていく。母親に会いに、というよりは、人の気配がない気軽な場所へ行く感覚で。何しろ母親は、そこに誰がいようと何があろうと関係なく、いつでも心を精霊の世界へと飛ばしているのだから。
けれど今日は、どこか様子が違った。頭を低くする侍女の傍らをすり抜けて扉の中へ足を踏み入れた途端、鳶色の瞳がまっすぐにカイを見て微笑んだ。
驚いて、ちょっと息をのむ。扉が完全に閉まったのを確認してから、彼は一直線に母親のもとへと歩を進めた。
天窓から落ちる色のついた光を浴びて、大巫女の瞳は確かにカイの姿を追ってくる。
「………かあさん」
「カイ」
「ひさし、ぶりだ。びっくりした。どれだけぶりか、覚えてる?」
「さあ、どれだけかしら。あちらの世界を見ていると、時を数えるのを忘れてしまうの」
涼やかな声が耳に心地いい。伸ばされたたおやかな手のひらに大人しく頭を撫でられながら、半年くらい、と、呟く。なるべく平静な声音で、待ちわびていたことを悟られないように。
正気を違えたと言われている母親が、本当に狂人になったわけではないと知っているのは、カイと父親を除けば大巫女の世話を一手に引き受けている年老いた侍女ひとりだけだ。普段夢見るように焦点の合わない瞳は、ここではなく精霊の世界を映している。精霊の世界を覗いて、魂をそちらの世界にゆだねて。そうして時たま、こちらに置き去りにされている身体の中に、彼女は還ってくるのだ。
「そう。そういえば、少し背が伸びたみたい」
「うん……どうかな。でもまだ、とうさんよりはだいぶ低いよ」
「そんな簡単に抜かしてしまっては、あの人が拗ねてしまうわ」
ふふ、と、柔らかな印象を与えるかんばせが、ほんの少し甘さを含んで笑み崩れる。お父さまに花を持たせておやりなさい、と優しく諭すその声が、大巫女ではなく完全に母親のものとなって、カイはやっと肩にいれていた僅かな力を抜いた。
母親は近いけれど、大巫女は遠い。カイにとって目の前にいる女性は、信頼のおける身内でありながら、自分のすべてを見透かす驚異の対象でもあった。精霊神にもっとも近しいところにいる大巫女は、ときおりカイの目にでさえ、人ではない、本能的に畏怖を感じる存在に映る。
「……いつもよりも顔つきがしっかりしてる。もしかして、今回は長くいる?」
「そうね、二日……三日は、無理かもしれないわ」
「一日いてくれれば上等だよ」
ほんのりと笑う母親に屈託なく笑いかけて、父さんを呼んでくる、と踵を返した。が、すぐに呼び止められる。振り向くと、母親はちょっと困ったような顔をして首を傾げていた。
「どうしたの」
「少し、あなたに……聞きたいことがあるのだけど」
「なに?」
手招きに従って、母親の側による。しゃらり、と衣擦れの音を響かせて彼女は立ち上がり、カイを下から覗き込むようにして跪いた。
「あの子に会った?」
会った? と疑問系で紡ぎながらも、事実をただ確認しているだけのようだった。カイはちょっとたじろいで、けれどすぐに小さく頷いた。怒られるような気配はない。
「会ったよ。少し、喋った」
「そう……。ね、カイ。あなたからは、あの子はどう見える?」
「どう、って……」
母親の意図が読めずに、思わず鳶色の瞳を凝視する。真っ直ぐに見返しても、臆することなく真っ直ぐに返ってくる瞳。久しく視線を合わせなかった母親のそれを懐かしいと感じる一方で、つい最近に似た形の、真っ黒な色彩に見返されたことを思い出す。そうして漠然と、母親が聞きたがっていることを理解した。
「かあさんに似てる。レイは、こっちの世界をあんまり見てないね」
「そう……見える?」
うん、と頷いた後で、レイカが大きな瞳を真っ直ぐ自分に向けてきたことを思い出す。精霊の世界を覗いていても、レイカはカイの視線に気づいていた。
「でも、完全にあっちにいってるわけじゃないみたいだ。かあさんみたいに、自分の意志とは関係なく、あっちの世界を見てるわけじゃなくて」
言いながら、あれ、と思う。これは変じゃないだろうか。
「……レイは、精霊の世界を、自由に覗き見できるのかな」
普通はそんなこと、できるものではないのだけれど。
母親の顔を伺うけれど、笑い飛ばしてくれるような気配はなかった。そわり、とうなじの産毛が逆立つ感覚がした。腕を見ると、寒くもないのに鳥肌が立っている。
精霊とはなにか。精霊の世界とはどういったものなのか。その実態を理解しているものはいない。強大な力を内に持ち、その存在の気配を色濃く感じられるカイでさえ、あれは何かと聞かれたら詳細には言えない。それでも説明しろと言われれば、「形のない、あらゆるもの」と答える。
精霊を見るのにはコツがいる、のだそうだ。カイ自身はとくに意識せずともやってのけるから、よくわからないのだけれど。闇雲に目を凝らしても、精霊は見えない。その姿をはっきりと知覚するには、精霊の気配を感じ取り、意識をその気配に添わせて、そしてそうっと輪郭を辿っていかなくてはならない。輪郭の線を結んで初めて、その全貌を「見る」ことができる。
だから、対象が強大になればなるほど、その作業は困難になる。下位精霊であれば、あれはもともと明確な形を持たないのだから、少し意識するだけでたいていの人間は光の靄として見ることができる。けれど高位精霊や精霊神になると、影しか見ることができなかったり、その気配だけで圧倒されて意識を持って行かれたりしてしまう。
それが単体の精霊でなく、世界にまで及ぶとなると、相当の負担だ。カイは夢見る間に垣間見たことしかないし、大巫女を務める母親でさえ、身体を置き去りにして意識を飛ばしてしまっている。
気軽に覗き、気軽に視線を逸らせるような、そんなものでは断じてないのに。
「……すごいね」
感嘆の言葉なんて、初めて紡いだ。カイは瞳を煌めかせて、顔一杯に笑顔を作る。
”黒”は特別なのだと、ずっと言われて育ってきた。けれど自分にとって普通であることが特別なのだと褒めそやされても実感はなく、なんの感慨も感じない。けれどレイカが、本当にそんなあり得ないようなことをやってのけているというのなら、それはすごいことなのだと、素直に思う。
「あなたはそこで、感心するのね」
眉尻を下げて、母親が笑う。愛おしそうに、困ったように。カイは目を瞬かせて、ゆっくりと立ち上がった母親の顔を目で追った。柔らかなかんばせが、愁いを帯びて僅かに翳る。
「わたしは、おそろしいわ」
「……かあさんが?」
「カイ、レイカはね、覗き見ているつもりではないのよ。あの子には、こちらとあちらの区別すらついていないのだと思うわ」
ほっそりとした指先を緩く組んで、憂い顔をそっと伏せる。
「物思うだけで世界が変わる、その不思議さにも気づいていないの。真っ新なのだわ。本当に、どうして………人であれば、人として生まれたのであれば、備わっているはずの情動が、あの子にはまるで感じられない」
ふ、とカイの頬をそよ風が撫でた。空気が動いて、ほのかに光る柔らかな靄が、嘆く母親を宥めるようにやんわりと取り巻く。
「人であるのに、あの子はとても、精霊に近い。決してこのまま朽ちさせたくはないのに、どうすればあの子のためになるのか……」
「かあさん」
「人として、生きてほしいの。”黒”を預かったせいで、あなたにも不自由をさせているわ。けれどあなたにも、きちんと自分で自分の道を選んでほしいと思ってる」
「俺は、そうしてると思う。特別だのなんだのと言われても、全然実感がないから」
心配しないで、と強く言い切る。哀しげに眉をひそめていた母親は、そうね、と小さく息をついてから、カイをじっと覗き込んだ。
「……ねえ、カイ。レイカをお願いね。あなたの妹を、可愛がってあげて」
「いいけど、ひとつ問題があるよ」
なあに、と首を傾げる母親に、カイはわざとしかめっ面しい顔を作ってみせた。
「とうさんには、レイには会うなって言われてるんだ。少し会って喋ったことも、とうさんには内緒にしてる」
「まあ……」
母親が父親を説得してくれることを期待しての言葉だったけれど、少し首を傾げた母親は、にこりと笑ってカイに言った。まるで少女のように、華奢な人差し指を一本、自分の口にそっと添えて。
「じゃあ、お父さまには内緒に、ね?」
難しいことを簡単に言ってくれるなと思いながら、カイは苦笑して、それでもはっきりと頷いた。
ここは大巫女の間。国の中心であり、ふたりの”黒の御子”を産んだ女性の住居でもある。
午前のうちに淡々と家庭教師に出された課題のすべてを終わらせたカイは、すべての付き人を置いて母親のもとへと赴いた。大巫女のもとへ行く時だけは、わざわざまかなくてもひとりになれるのがありがたい。
ひとりになりたい時は、自分でそういった機会をわざわざ作らなくてはいけないカイは、思いつくとよく母親のもとへ出向いた。大巫女の間は”力”に満ちていて常人では立ち入るのにかなりの気力を使うようだが、彼は気軽に訪ねていく。母親に会いに、というよりは、人の気配がない気軽な場所へ行く感覚で。何しろ母親は、そこに誰がいようと何があろうと関係なく、いつでも心を精霊の世界へと飛ばしているのだから。
けれど今日は、どこか様子が違った。頭を低くする侍女の傍らをすり抜けて扉の中へ足を踏み入れた途端、鳶色の瞳がまっすぐにカイを見て微笑んだ。
驚いて、ちょっと息をのむ。扉が完全に閉まったのを確認してから、彼は一直線に母親のもとへと歩を進めた。
天窓から落ちる色のついた光を浴びて、大巫女の瞳は確かにカイの姿を追ってくる。
「………かあさん」
「カイ」
「ひさし、ぶりだ。びっくりした。どれだけぶりか、覚えてる?」
「さあ、どれだけかしら。あちらの世界を見ていると、時を数えるのを忘れてしまうの」
涼やかな声が耳に心地いい。伸ばされたたおやかな手のひらに大人しく頭を撫でられながら、半年くらい、と、呟く。なるべく平静な声音で、待ちわびていたことを悟られないように。
正気を違えたと言われている母親が、本当に狂人になったわけではないと知っているのは、カイと父親を除けば大巫女の世話を一手に引き受けている年老いた侍女ひとりだけだ。普段夢見るように焦点の合わない瞳は、ここではなく精霊の世界を映している。精霊の世界を覗いて、魂をそちらの世界にゆだねて。そうして時たま、こちらに置き去りにされている身体の中に、彼女は還ってくるのだ。
「そう。そういえば、少し背が伸びたみたい」
「うん……どうかな。でもまだ、とうさんよりはだいぶ低いよ」
「そんな簡単に抜かしてしまっては、あの人が拗ねてしまうわ」
ふふ、と、柔らかな印象を与えるかんばせが、ほんの少し甘さを含んで笑み崩れる。お父さまに花を持たせておやりなさい、と優しく諭すその声が、大巫女ではなく完全に母親のものとなって、カイはやっと肩にいれていた僅かな力を抜いた。
母親は近いけれど、大巫女は遠い。カイにとって目の前にいる女性は、信頼のおける身内でありながら、自分のすべてを見透かす驚異の対象でもあった。精霊神にもっとも近しいところにいる大巫女は、ときおりカイの目にでさえ、人ではない、本能的に畏怖を感じる存在に映る。
「……いつもよりも顔つきがしっかりしてる。もしかして、今回は長くいる?」
「そうね、二日……三日は、無理かもしれないわ」
「一日いてくれれば上等だよ」
ほんのりと笑う母親に屈託なく笑いかけて、父さんを呼んでくる、と踵を返した。が、すぐに呼び止められる。振り向くと、母親はちょっと困ったような顔をして首を傾げていた。
「どうしたの」
「少し、あなたに……聞きたいことがあるのだけど」
「なに?」
手招きに従って、母親の側による。しゃらり、と衣擦れの音を響かせて彼女は立ち上がり、カイを下から覗き込むようにして跪いた。
「あの子に会った?」
会った? と疑問系で紡ぎながらも、事実をただ確認しているだけのようだった。カイはちょっとたじろいで、けれどすぐに小さく頷いた。怒られるような気配はない。
「会ったよ。少し、喋った」
「そう……。ね、カイ。あなたからは、あの子はどう見える?」
「どう、って……」
母親の意図が読めずに、思わず鳶色の瞳を凝視する。真っ直ぐに見返しても、臆することなく真っ直ぐに返ってくる瞳。久しく視線を合わせなかった母親のそれを懐かしいと感じる一方で、つい最近に似た形の、真っ黒な色彩に見返されたことを思い出す。そうして漠然と、母親が聞きたがっていることを理解した。
「かあさんに似てる。レイは、こっちの世界をあんまり見てないね」
「そう……見える?」
うん、と頷いた後で、レイカが大きな瞳を真っ直ぐ自分に向けてきたことを思い出す。精霊の世界を覗いていても、レイカはカイの視線に気づいていた。
「でも、完全にあっちにいってるわけじゃないみたいだ。かあさんみたいに、自分の意志とは関係なく、あっちの世界を見てるわけじゃなくて」
言いながら、あれ、と思う。これは変じゃないだろうか。
「……レイは、精霊の世界を、自由に覗き見できるのかな」
普通はそんなこと、できるものではないのだけれど。
母親の顔を伺うけれど、笑い飛ばしてくれるような気配はなかった。そわり、とうなじの産毛が逆立つ感覚がした。腕を見ると、寒くもないのに鳥肌が立っている。
精霊とはなにか。精霊の世界とはどういったものなのか。その実態を理解しているものはいない。強大な力を内に持ち、その存在の気配を色濃く感じられるカイでさえ、あれは何かと聞かれたら詳細には言えない。それでも説明しろと言われれば、「形のない、あらゆるもの」と答える。
精霊を見るのにはコツがいる、のだそうだ。カイ自身はとくに意識せずともやってのけるから、よくわからないのだけれど。闇雲に目を凝らしても、精霊は見えない。その姿をはっきりと知覚するには、精霊の気配を感じ取り、意識をその気配に添わせて、そしてそうっと輪郭を辿っていかなくてはならない。輪郭の線を結んで初めて、その全貌を「見る」ことができる。
だから、対象が強大になればなるほど、その作業は困難になる。下位精霊であれば、あれはもともと明確な形を持たないのだから、少し意識するだけでたいていの人間は光の靄として見ることができる。けれど高位精霊や精霊神になると、影しか見ることができなかったり、その気配だけで圧倒されて意識を持って行かれたりしてしまう。
それが単体の精霊でなく、世界にまで及ぶとなると、相当の負担だ。カイは夢見る間に垣間見たことしかないし、大巫女を務める母親でさえ、身体を置き去りにして意識を飛ばしてしまっている。
気軽に覗き、気軽に視線を逸らせるような、そんなものでは断じてないのに。
「……すごいね」
感嘆の言葉なんて、初めて紡いだ。カイは瞳を煌めかせて、顔一杯に笑顔を作る。
”黒”は特別なのだと、ずっと言われて育ってきた。けれど自分にとって普通であることが特別なのだと褒めそやされても実感はなく、なんの感慨も感じない。けれどレイカが、本当にそんなあり得ないようなことをやってのけているというのなら、それはすごいことなのだと、素直に思う。
「あなたはそこで、感心するのね」
眉尻を下げて、母親が笑う。愛おしそうに、困ったように。カイは目を瞬かせて、ゆっくりと立ち上がった母親の顔を目で追った。柔らかなかんばせが、愁いを帯びて僅かに翳る。
「わたしは、おそろしいわ」
「……かあさんが?」
「カイ、レイカはね、覗き見ているつもりではないのよ。あの子には、こちらとあちらの区別すらついていないのだと思うわ」
ほっそりとした指先を緩く組んで、憂い顔をそっと伏せる。
「物思うだけで世界が変わる、その不思議さにも気づいていないの。真っ新なのだわ。本当に、どうして………人であれば、人として生まれたのであれば、備わっているはずの情動が、あの子にはまるで感じられない」
ふ、とカイの頬をそよ風が撫でた。空気が動いて、ほのかに光る柔らかな靄が、嘆く母親を宥めるようにやんわりと取り巻く。
「人であるのに、あの子はとても、精霊に近い。決してこのまま朽ちさせたくはないのに、どうすればあの子のためになるのか……」
「かあさん」
「人として、生きてほしいの。”黒”を預かったせいで、あなたにも不自由をさせているわ。けれどあなたにも、きちんと自分で自分の道を選んでほしいと思ってる」
「俺は、そうしてると思う。特別だのなんだのと言われても、全然実感がないから」
心配しないで、と強く言い切る。哀しげに眉をひそめていた母親は、そうね、と小さく息をついてから、カイをじっと覗き込んだ。
「……ねえ、カイ。レイカをお願いね。あなたの妹を、可愛がってあげて」
「いいけど、ひとつ問題があるよ」
なあに、と首を傾げる母親に、カイはわざとしかめっ面しい顔を作ってみせた。
「とうさんには、レイには会うなって言われてるんだ。少し会って喋ったことも、とうさんには内緒にしてる」
「まあ……」
母親が父親を説得してくれることを期待しての言葉だったけれど、少し首を傾げた母親は、にこりと笑ってカイに言った。まるで少女のように、華奢な人差し指を一本、自分の口にそっと添えて。
「じゃあ、お父さまには内緒に、ね?」
難しいことを簡単に言ってくれるなと思いながら、カイは苦笑して、それでもはっきりと頷いた。
管理人のオリジナル「花守」の灰(カイ)とレイカのお話です。花守本編の前段階のお話っぽく。灰とレイカの子供時代です。
オリジ話を書くととたんに甘さが皆無になるこの不思議^^ なんだか続きそうな予感ですが、とりあえずは灰とレイカの邂逅までをお届けします><
なんかこう……世俗と隔たれた小さな国の中でのお話な感じです。精霊信仰が国の政をする上での軸で、実際に精霊と共存しているファンタジーです。
国で一番偉いのが大巫女ですが、実権を握るのは神殿内の官僚たち。大巫女とその夫の組み合わせで国をまとめるのがスタンダードです(大巫女は覡でも可)
世襲制ではないですが、「力(神通力っぽいもの)」が強い人が権力を握るので、そして「力」が強い血筋というものがあるので、結局は世襲っぽいです。
そんな設定がうにゃうにゃありつつ、てきとうに肩の力を抜いてお楽しみください^^
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オリジ話を書くととたんに甘さが皆無になるこの不思議^^ なんだか続きそうな予感ですが、とりあえずは灰とレイカの邂逅までをお届けします><
なんかこう……世俗と隔たれた小さな国の中でのお話な感じです。精霊信仰が国の政をする上での軸で、実際に精霊と共存しているファンタジーです。
国で一番偉いのが大巫女ですが、実権を握るのは神殿内の官僚たち。大巫女とその夫の組み合わせで国をまとめるのがスタンダードです(大巫女は覡でも可)
世襲制ではないですが、「力(神通力っぽいもの)」が強い人が権力を握るので、そして「力」が強い血筋というものがあるので、結局は世襲っぽいです。
そんな設定がうにゃうにゃありつつ、てきとうに肩の力を抜いてお楽しみください^^
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一つの”黒”は吉兆
全てを覆い安らぎへと導き
真っ暗闇の内から夜明けを誘う温もりの色彩
二つの”黒”は凶兆
全てを覆い欠片すらも遺さず
国に黄昏を、永遠の終末をもたらす色彩
全てを覆い安らぎへと導き
真っ暗闇の内から夜明けを誘う温もりの色彩
二つの”黒”は凶兆
全てを覆い欠片すらも遺さず
国に黄昏を、永遠の終末をもたらす色彩
大巫女の胎から二人目の”黒の子”が産まれた時、神殿は大変な騒ぎになったという。神殿の高官たちは速やかに箝口令を敷き、産褥に立ち会った侍女たちは強制的に口封じのまじないをかけられた。
老いて白くなった髪をつきあわせながら、高官たちは考える。”黒の子”の話はいまや神話だ。同じ世代に二人も”黒の子”が現れるなど、彼らの記憶の中には、そして彼らを数世代遡っても、かつて前例がなかったことなのだ。
しかしそれでも二人目の”黒の子”の存在は彼らに本能的な恐怖を与えた。一人目の”黒の子”の、日に日に濃くなっていく尋常ならざる空気に当てられている彼らだから、なおさらに。
「儀式をしよう」
「女神の供物に」
「高貴なる贄に」
ぽつり、ぽつり、と、控えめに、けれど断定的な言葉が落とされた。
しかし供物を捧げるには時期が。次の儀式はまだずいぶんと先の。
ざわりざわりと、次第に高ぶっていく感情と一緒に大きく揺らされる空気を、カツーンと高い音が遮った。
金属を石に打ち付けた音だ。高官たちが振り向くと、部屋に集まったものの中で一番の権威を持つ、壮年の男が静かな瞳で彼らを見据えていた。
真っ白い頭ばかりの中で、短く切りそろえられた濃い褐色の髪を持つ男がすっと席を立つ。彼は大巫女の夫で、二人の”黒の子”の父親だった。
「貴公らは、銀の女神がもたらされた神話の詳細をご存じか」
静かな問いかけは、静まりかえった部屋の中によく響く。壁面に使われている百馨石が白く煌めき、明かりのない部屋を薄ぼんやりと照らしていた。
「終末をもたらす”黒の子”は、身体に印が浮き上がるという」
さわり、と空気が揺れた。白髪の高官たちは目を見交わし、赤子に印がなかったことを確かめ合った。
「それは、精霊の御印のことですかな」
あごひげをたっぷり蓄えたひとりの老人が、どこか不遜な声音を発する。
「いかにも」
その老人は、一人目の”黒の子”には何も印が現れなかったということは、というもったいぶった前置きをした後、ちらりと男を睥睨した。
「であれば、印が現れるのは巫女姫が七の御歳になられた時。今はなくとも、浮き上がってくるに違いないでしょう」
重々しい言葉に、周りがざわめく。
「ではやはり、そうなる前に」
ひとりの男がふさふさとした白髪を揺らしながら身を乗り出した時、男が静かに口を開いた。
「貴公らは」
ふたたびざわめきだした老人たちを、静かな、けれどよく通る声で遮った。声音にも瞳にも特別な感情は伺えない。けれど冷厳なその雰囲気に、高官たちは口をつぐむ。
「自らの妄想じみた不安を解消する、まさにそれだけのために、今は廃れた供物の儀式を復活させてまで、いとけない幼子の命を奪うおつもりか」
静かな怒りが垣間見えた。父親だから、我が子だから、そういった情を感じさせない、ただただ純粋な怒りだ。場は静まりかえり、興奮に煽られ揺らめいていた空気が沈殿する。
男はぐるりと視線を一巡させると、カツーンと高い音を立ててレイピアの鞘を石床についた。それを合図に、決定がくだされる。
「赤子は神殿の奥へ。選りすぐりの侍女をつけ、七の時を迎えるまで丁重に育てる。また、”黒の子”同士が顔を合わせることのないよう、厳重に注意しろ」
事実上の隔離宣言に、高官たちはほっと息をついた。男はその様子を、かすかに苦みを混ぜた視線で見据え、それを彼らに悟られないうちにくるりと踵を返して部屋を後にした。
*
十になる誕生日を迎えた日、珍しいことに、神殿の長である父親に呼ばれた。公務として呼ばれるのはこれが初めてだけれど、漆黒の髪と漆黒の瞳を持つその少年は、取り立てて臆することなく執務室へと向かう。後ろからぞろぞろと教育係と称する侍女や教師が付いてきているが、彼はそれを空気のようにあしらい、自分ひとりだけを執務室の中に滑り込ませると、さっさと扉を閉じた。
「とうさん」
「カイ」
少年が入ってきたのを見て、褐色の髪の男も執務室にいた何人かを追い出した。残ったのは男と少年だけだ。部屋の中に二人だけになると、少年の顔はとたんに年相応のものになり、男は父親の顔になった。
「一応、公務で呼んだんだけどな。ひとりで来たのか?」
「俺はいつでもひとりだよ。いつも後ろにいるのはただの空気」
そんな可愛いものでもないけど、と呟く少年の髪を、男は近寄ってぐしゃぐしゃと撫でる。
「どいつもこいつも、俺を自分側に懐柔しようと躍起だよ。とうさん、”黒”っていうのはそんなに特別なものなのか?」
「お前が特別に強い力を持っているのは確かだな」
印は? と聞く男に、ないよ、と少年は腕を掲げて見せた。ぽんぽんと頭を撫でられながら、少年は背の高い父親を仰ぐ。大人びていても、態度が尊大でも、背は年相応にまだまだ低い。
「じゃあ、もうひとりは?」
「もうひとり?」
「妹」
真っ黒い瞳が、じいっと父親を見上げる。男はちょっとそれを眺めて、うん、と頷いた。「強いよ」
「俺より?」
「それはわからない」
ふうん、と呟く少年に笑って、男は彼をソファに座らせた。すっとした香りのするお茶を淹れて、少年の前に置いた。
「でも、お前より不安定なんだ。いろいろと」
「ふうん?」
「だから、もう会いに行っちゃ駄目だぞ」
お茶に口をつけていた少年が、ぐっとつまった。一瞬止まって、何事もなかったようにまたカップを傾けたけれど、慌てたように口を離す。
「熱いだろ」
「熱いよ……なんでばれたの。かあさんから?」
“黒の子”を二人も産んだことで、気が違ってしまった母親の名を平気で出す息子に、男は笑って首を振った。今では誰もが敬遠するようになった大巫女との交流を、精霊を介してこの少年はこともなげにやってのけてみせる。
「いや、レイカから」
レイカ、と少年が響きを舌で転がす。噛みしめるように。彼は妹の名すら知らされていなかったのだ。無意識のその動作を、男は愛おしむような憐れむような、少し複雑な表情で見た。
「でも、会いに行ったけど、会ってはないよ。見つけられなかった。レイカはなんで気づいたんだろ」
「見つけられなかった?」
精霊たちには口止めしたのに、と呟く少年を遮って、男が怪訝な顔をした。きょとんと、少年が顔を上げる。
「侍女と、変な信者みたいなのしかいなかった。花に埋もれた像をみんなで囲んでさ」
「ああ……そうか。見つけられなかったか」
怪訝な顔をさらっと消して、男はにっこりと、それは良かったと頷いた。少年は違和感を覚えながらも、それが何に対する違和感なのかがわからず眉をひそめる。
「とにかく、もう会いに行っちゃ駄目だぞ。お前の力が刺激になって、あの子に印が現れでもしたら大変だ」
「まだ五歳だろ?」
「七歳で現れるっていうのは一般的な精霊の印のことだ。”黒の子”の印は、ちょっと予測がつかない」
わかったな、という、男の珍しく厳しい表情に、少年は渋々ながらも頷いた。そうしてふと、顔を上げる。
「レイカは、どういう言霊を持つの」
「花だよ。華かな? 麗しの華。可愛いだろう、女の子らしくて」
「派手だね」
「母さんがつけたんだよ」
「俺は灰なのに。これは男らしいの?」
「……母さんがつけたからなあ」
苦笑する男に、少年は笑う。ある程度の意味は推し量れても、母親がどういう想いを込めて言霊をくれたか、いまいち理解ができない。それでも不満はないから、少年は上機嫌に紡いだ。
「光だと思った」
「何が?」
「レイ」
強く差し込む真っ直ぐな光。
詩人だな、と笑う父親に、少年は屈託なく返す。
レイカ。レイ。音の響きが気に入って、舌の上で転がす。やっぱりちらりとだけでも姿を見たいと、そう思う。
「話って、これだけ?」
「無断で抜け出したことへの説教もかねて。息抜きするなら、もう見つかるなよ」
「わかった。あと、とうさん」
「ん?」
ふーっとお茶を冷ましながら、少年はちらりと黒目を向ける。男はそれを受けて、ほんの少し目を細めた。
「さっきここにいた、ひげの男。アレは駄目だよ。近いうちに堕ちる」
「……そうか」
ふう、とため息をつく男から、少年はそっと目を逸らす。知らせておかなくてはいけないことだけれど、知らせたことで父親が落ち込むのは、なんとなく嫌なものだ。
「最近多いな。でも、それもそうか。お前たちが産まれてくるくらいだからな」
「”黒の子”のせい?」
「違うよ。”黒の子”が産まれてくるから国に異変が起きるんじゃない。異変が起きるから、”黒の子”が産まれてくるんだ」
漆黒の瞳で父親を見る。真っ直ぐ見返してくれる父親を。少年の瞳を真っ向から見据えられる人間を、彼は父親と母親以外に知らない。
「支え護るか、打ち壊すか。お前たちは、いつか選択をしなくちゃいけないかもしれない」
「護りたいものも壊したいものも、今のところ特にないんだけど」
「それは結構なことだ」
父親は大らかに笑い、ぐしゃぐしゃと少年の髪をかき回す。
王者の風格を持つ少年は、けれどまだ少年だったから、温かな手のひらに守られて、ぬくぬくと笑い、お茶の香りを楽しんだ。
夜陰に紛れて、少年は寝床を抜け出した。目指す先は広大な敷地の中でも特に奥まったところにある神殿。もっと言うと、そこで暮らしているはずの少年の妹のもとだ。
前回抜け出したのは明け方だったから、高い木の上に上っていた少年は朝日に照らされて、それで見つかってしまったのだろう。顔を見たことのない少女を見つけるには明るい中での方がいいだろうと考えた結果だったのだけれど、考えてみればこっそり動くには明るい中よりも暗い中の方がいいに決まっている。
地味な色の布を侍女がするように被った少年は、今度は明るい中遠くからではなく、暗い中近くで少女の姿を見ようと考えていた。
とは言っても、父親との約束があるから、顔の造作がわかるほど近くには行けない。けれど、少年はただ、美しい響きの名前を持つ、自分と同じ色彩を纏った妹が本当にいるのかどうかを自分の目で確かめたいだけだから、それでも構わないと思っていた。
ちらちらと目の前を横切る下位の精霊たちの光を頼りに、辺りをうかがいながら身軽な動きで進んでいく。前回登った木の下まで来て、硝子張りにされた中庭への入り口を見やった。
五歳の少女なのだから、きっともう眠っている。だから、まずはそれらしい部屋を見つけなくてはいけない。部屋は中庭を囲むようにぐるりとしつらえられている。どのあたりの部屋が一番間取りが広いかな、と考えながら、これまで以上に慎重に足を進めていく。
と、夜にしては中庭が明るいのに気づいた。ぐるりと周りを囲っている百馨石が月光を跳ね返しているのかと思ったけれど、違う。少年はあまり持ち合わせていない好奇心を発揮して、どきどきしながら、そっと中庭を覗いた。
覗いて、首を傾げる。光っているのは下位精霊だ。精霊自体はどこにでもいるから珍しくも何ともないけれど、中庭がぼんやりと明るくなるほど、なぜこんなに集まっているのだろう。
少年はあたりを見回して、人の気配がないことを確認すると、ゆっくりと光の中心に近づいていった。近づいて気づく。中心にあるのは、信者たちが取り囲んでいた像だ。白い布が被せられ、さらにその上を白い花が彩っているので、なんの形をしているのかはよくわからないけれど。
「……何か、特別な像なのかな」
下位精霊の光が、像を飾っている真っ白な花にちらちらと反射する。巫女姫のための神殿だからか、少年が寝起きしているところよりも、どうにも雰囲気が可愛らしい。
自分には似合わないな、となんとなく気恥ずかしくなりながら、なにげなく白い花をひとつ手に取った。甘い蜜の香りがする。母親が好きそうだ、と、そんなことを思った時、風もないのにはらはらと白い花が足下に落ちてきた。
軽く目を瞠って、少年はそれから改めて大きく見開いた。見下ろした先で、彫像が白い目蓋を開き、真っ黒な瞳でこちらを見ていた。
一拍おいて、白い布もはらりと落ちる。その下から、光に照らされて美しい銀色を帯びた艶やかな黒髪が現れた。
長い黒髪、白い肌、真っ黒な瞳。こうして動いたという事実があったにも関わらず、間近で見る少女の造作は怖いほど整っており、無表情に自分を見つめてくる少女はまるで人形のようだった。
レイカ。麗しの華。けれど、まるで色がない。驚いたのと、魅入ったので、少年はしばらく呆然とした面持ちで少女と見つめ合っていた。
「………セイレイ?」
小さく小さく、少女が呟く。幼い声は存外に人間くさくて、少年は少し肩の力を抜いた。
「俺が、精霊?」
「セイレイ? なら、しゃべってもいい? いいのよね?」
少年が目を瞬かせている間に、少女はもぞもぞと動き、白い花と白い布を身体の上からはらはらと零した。そうして立ち上がろうとして、べとっと転ぶ。
「………おい」
「あは、いいにおい」
ふふ、と笑う少女はまるで無邪気だ。倒れ込んで、寝ころんだままで、少年を見上げた。
「ねえ、あなたの名前は? はじめまして、でしょう? わたしは、レイカ」
少年は戸惑いながら、少女の傍らに膝をついた。花がいくつか潰されて、ふわりと甘い香りが上る。
「なんで俺を精霊だと思う?」
「だって、わたしを見てるもの」
少年はゆっくりと瞬きをする。無邪気に微笑みながらも、どこか焦点の合っていない少女の瞳を、その奥に目を凝らすようにじっと見つめた。少女は少年を見ている。けれど見ていないようにも思える。この感覚には、覚えがある。
「セイレイはわたしを見るのよ。ドウブツも。でも、ニンゲンは見ないの。それに、ニンゲンはとても汚い。汚いのよ。なんでニンゲンは、からだの真ん中に、あんな汚い、重いものを抱えているのかしら」
歌うように紡がれる言葉。無邪気な微笑み。目の前にあるものよりも、ほんの少しずれたところにあるものを見る瞳。
気を違えた母親と、まるで同じ。
「……俺は、汚くない?」
「きれいよ。すごく、きれい。それにね、それに……あのひとに似てる。大人の男の人の姿をした、背の高い。トウサマというの。知ってる?」
「父さま?」
「そう、トウサマ。知ってる?」
うん、と頷く。少年は混乱したまま、けれど嬉しそうに笑う少女の方に、そっと手を伸ばした。
小さな頭をそっと撫でる。触れてみれば温かくて、ただただ愛しい命がそこにあるのだと、そう思えた。
「俺はね、兄さま、だよ」
「ニイサマ?」
「そう。よろしく、レイ」
頭を撫でながら、瞳を覗き込むようにして笑いかけると、少女はぱちぱちと瞬きをした。視線が合う。焦点が合う。少女は目を細めて、花が咲き綻ぶように、にっこりと満面の笑みを浮かべた。
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伯爵と妖精パロ、教師と生徒より。
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伯爵と妖精パロ、教師と生徒より。
+++
伯爵と妖精パロ
---教師と生徒
頭がくらくらする。
昼放課。賑やかなざわめきをほんの少し遠いところに聞きながら、リディアは保健室のベッドの上で寝返りをうった。
珍しいことに、風邪をひいてしまった。自宅の改修工事のために昨日からエドガーの邸でお世話になっているリディアには、早退しようにも帰る家がなくいので、こうして滅多に足を運ばない保健室でお世話になっているのである。
本当は帰ろうと思えば帰れるのだけれど、どちらの家へ帰るにしろ、エドガーに一言言わなくてはいけない。とても調子が悪かったけれど、こうして保健室で寝ていることですらできれば内緒にしておきたいと考えているリディアには、なかなか早退を言い出す勇気はなかった。
カーテンの向こう側で、女の子たちの他愛もない雑談が聞こえる。何とはなしに耳を傾けながら、またころんと寝返りをうったところで、いくらか女生徒の声のトーンが跳ね上がった。
「あ、先生!」
「やあ、こんなところでお喋りかい?」
てっきり、養護教諭が入ってきたかと思ったのに、聞こえてきたのは、とてもとても聞き慣れた声だった。
途端にばくばくと心臓が動き始める。いたずらが見つかってしまった子どものように、落ち着かなく視線を泳がせた。
別にリディアは何も悪いことをしていない。だというのにそんな風に罪悪感を覚えてしまうのは、リディアが体調を崩したりするとエドガーがひどく不機嫌な顔で、とても心配するのを知っているからだ。
心底から逃げ出したくなって、無駄だとはわかっていながらせめてもの抵抗と、上掛けを頭からひっかぶった。
「病人が寝ているようだから、他の場所へ行きなさい。保健の先生もいないのに、勝手に居座ったら駄目だろう」
「えー、だってここ、涼しいんだもん。教室はうるさいしさあ」
「保健室が静かなのは当たり前だよ。君たちがいるとうるさくなってしまうだろ?」
「ひっどー! そんなに騒いでないもん。ちょっと喋ってただけじゃん」
「あ、じゃあ先生も一緒に行こうよ。うちらの相手してくれたらここどいてあげる」
「僕は用事で来たんだよ。忘れ物を受け取りに来たんだから、残念だけど君たちの相手をしている暇はないんだ」
女の子たちのきらきらとした声が否応もなく耳に入る。きっと、エドガーの腕にしがみついたりもしているのだろう。容易に想像ができて、リディアは今度はその光景から逃れるようにぎゅっと体を縮こまらせた。エドガーに見つかりたくないと思っていたのに、今は行かないでと思ってしまう。
静かになったのは、授業開始の予鈴が鳴ってからだった。ほっと息をついたのも束の間、エドガーの足音がこちらに近づいてきた。
「開けるよ」
返事も待たずにカーテンが開けられて、エドガーがベッドの脇に立ったのを、リディアはシーツの下から音だけで感じていた。
「リディア、寝てるの?」
このシーツのかたまりがリディアだとエドガーは微塵も疑っていない。息を殺してじっとしたまま答えずにいると、おもむろに上掛けをはぎ取られた。
「何だ、起きてるじゃないか」
「………何す、」
文句を叫ぼうとしたが、場所を思い出して口をつぐむ。リディアの真面目な性格は、こんな時は不便だ。起き上がろうとして目眩を覚えたのもあって、またぽすんと枕に頭を落とした。髪を優しくかき上げられて、ひんやりとした大きな手のひらが額を覆う。
エドガーが顔をしかめるのは見たくなかったから、リディアはそっと視線を逸らした。
「だから家で休んでいなさいって言っただろう。ずいぶん熱いじゃないか」
「……だって」
「だってじゃない。帰るよ」
言って、有無を言わさずに抱き上げようとするエドガーのぎょっとする。ここは学校だということを、彼は忘れているのだろうか。
「やだ……やめてって、ば!」
本気で抵抗すると、思いがけない力だったのか、エドガーはあっさりリディアを離した。けれどそれに安心できたのは一瞬で、むきになったような強い力に、上掛けごと強引に抱き上げられてしまう。
「やだ、先生、」
「大人しく早退するならおろしてあげるよ」
どっちも嫌だ。
とはさすがに言えなくて黙ると、彼はリディアを伺うようにして椅子におろした。引っかかっていた上掛けで彼女をくるむようにしながら床に膝をついて、エドガーは見上げるようにリディアを見る。
「どうしたの、リディア。僕の家はそんなに嫌? でも、君の家は工事の音でうるさすぎて、ゆっくり休めないと思うんだ」
「だって、」
「ん?」
「……だって、あなたの家、静かで、すごく広くて」
熱を出して赤らんだ顔を俯けて、リディアは小さな声で言い募る。シーツにくるまれたリディアは心細げで、エドガーは、ああ、と納得した。
「さびしい?」
躊躇いながらリディアが頷くと、エドガーは「そっか」という軽い声音で、やっとやんわりとした顔で笑った。
「じゃあリディア、行こう」
「だから…っ」
「行くのは僕の部屋だよ。準備室のソファで寝てればいい。保健室よりも快適だし、何より僕がいるんだから、寂しくないだろ?」
ね、と優しく囁かれて、目をぱちぱちさせる。保健室でお喋りをしていた女の子たちに向けるのとは明らかに違う声音だ。それに気付いて、これ以上逆らえなくなってしまった。
支えてくれる腕に縋って、ゆっくりと立ち上がる。無意識にエドガーに体を寄せるリディアにエドガーが微笑んでいることなど知らず、リディアは胸にたまっていた不安を吐き出すように、ほっと息をついた。
「……そういえばエドガー、忘れ物っていうのは」
「決まってるだろ?」
にっこり笑顔で手を繋がれる。リディアは発熱とは違う理由で、ほんのり目元を赤らめた。
---教師と生徒
頭がくらくらする。
昼放課。賑やかなざわめきをほんの少し遠いところに聞きながら、リディアは保健室のベッドの上で寝返りをうった。
珍しいことに、風邪をひいてしまった。自宅の改修工事のために昨日からエドガーの邸でお世話になっているリディアには、早退しようにも帰る家がなくいので、こうして滅多に足を運ばない保健室でお世話になっているのである。
本当は帰ろうと思えば帰れるのだけれど、どちらの家へ帰るにしろ、エドガーに一言言わなくてはいけない。とても調子が悪かったけれど、こうして保健室で寝ていることですらできれば内緒にしておきたいと考えているリディアには、なかなか早退を言い出す勇気はなかった。
カーテンの向こう側で、女の子たちの他愛もない雑談が聞こえる。何とはなしに耳を傾けながら、またころんと寝返りをうったところで、いくらか女生徒の声のトーンが跳ね上がった。
「あ、先生!」
「やあ、こんなところでお喋りかい?」
てっきり、養護教諭が入ってきたかと思ったのに、聞こえてきたのは、とてもとても聞き慣れた声だった。
途端にばくばくと心臓が動き始める。いたずらが見つかってしまった子どものように、落ち着かなく視線を泳がせた。
別にリディアは何も悪いことをしていない。だというのにそんな風に罪悪感を覚えてしまうのは、リディアが体調を崩したりするとエドガーがひどく不機嫌な顔で、とても心配するのを知っているからだ。
心底から逃げ出したくなって、無駄だとはわかっていながらせめてもの抵抗と、上掛けを頭からひっかぶった。
「病人が寝ているようだから、他の場所へ行きなさい。保健の先生もいないのに、勝手に居座ったら駄目だろう」
「えー、だってここ、涼しいんだもん。教室はうるさいしさあ」
「保健室が静かなのは当たり前だよ。君たちがいるとうるさくなってしまうだろ?」
「ひっどー! そんなに騒いでないもん。ちょっと喋ってただけじゃん」
「あ、じゃあ先生も一緒に行こうよ。うちらの相手してくれたらここどいてあげる」
「僕は用事で来たんだよ。忘れ物を受け取りに来たんだから、残念だけど君たちの相手をしている暇はないんだ」
女の子たちのきらきらとした声が否応もなく耳に入る。きっと、エドガーの腕にしがみついたりもしているのだろう。容易に想像ができて、リディアは今度はその光景から逃れるようにぎゅっと体を縮こまらせた。エドガーに見つかりたくないと思っていたのに、今は行かないでと思ってしまう。
静かになったのは、授業開始の予鈴が鳴ってからだった。ほっと息をついたのも束の間、エドガーの足音がこちらに近づいてきた。
「開けるよ」
返事も待たずにカーテンが開けられて、エドガーがベッドの脇に立ったのを、リディアはシーツの下から音だけで感じていた。
「リディア、寝てるの?」
このシーツのかたまりがリディアだとエドガーは微塵も疑っていない。息を殺してじっとしたまま答えずにいると、おもむろに上掛けをはぎ取られた。
「何だ、起きてるじゃないか」
「………何す、」
文句を叫ぼうとしたが、場所を思い出して口をつぐむ。リディアの真面目な性格は、こんな時は不便だ。起き上がろうとして目眩を覚えたのもあって、またぽすんと枕に頭を落とした。髪を優しくかき上げられて、ひんやりとした大きな手のひらが額を覆う。
エドガーが顔をしかめるのは見たくなかったから、リディアはそっと視線を逸らした。
「だから家で休んでいなさいって言っただろう。ずいぶん熱いじゃないか」
「……だって」
「だってじゃない。帰るよ」
言って、有無を言わさずに抱き上げようとするエドガーのぎょっとする。ここは学校だということを、彼は忘れているのだろうか。
「やだ……やめてって、ば!」
本気で抵抗すると、思いがけない力だったのか、エドガーはあっさりリディアを離した。けれどそれに安心できたのは一瞬で、むきになったような強い力に、上掛けごと強引に抱き上げられてしまう。
「やだ、先生、」
「大人しく早退するならおろしてあげるよ」
どっちも嫌だ。
とはさすがに言えなくて黙ると、彼はリディアを伺うようにして椅子におろした。引っかかっていた上掛けで彼女をくるむようにしながら床に膝をついて、エドガーは見上げるようにリディアを見る。
「どうしたの、リディア。僕の家はそんなに嫌? でも、君の家は工事の音でうるさすぎて、ゆっくり休めないと思うんだ」
「だって、」
「ん?」
「……だって、あなたの家、静かで、すごく広くて」
熱を出して赤らんだ顔を俯けて、リディアは小さな声で言い募る。シーツにくるまれたリディアは心細げで、エドガーは、ああ、と納得した。
「さびしい?」
躊躇いながらリディアが頷くと、エドガーは「そっか」という軽い声音で、やっとやんわりとした顔で笑った。
「じゃあリディア、行こう」
「だから…っ」
「行くのは僕の部屋だよ。準備室のソファで寝てればいい。保健室よりも快適だし、何より僕がいるんだから、寂しくないだろ?」
ね、と優しく囁かれて、目をぱちぱちさせる。保健室でお喋りをしていた女の子たちに向けるのとは明らかに違う声音だ。それに気付いて、これ以上逆らえなくなってしまった。
支えてくれる腕に縋って、ゆっくりと立ち上がる。無意識にエドガーに体を寄せるリディアにエドガーが微笑んでいることなど知らず、リディアは胸にたまっていた不安を吐き出すように、ほっと息をついた。
「……そういえばエドガー、忘れ物っていうのは」
「決まってるだろ?」
にっこり笑顔で手を繋がれる。リディアは発熱とは違う理由で、ほんのり目元を赤らめた。
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伯爵と妖精パロ、新婚さんより
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伯爵と妖精パロ、新婚さんより
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伯爵と妖精パロ
---新婚さん
エドガーの朝は早い。仕事場は車を走らせて15分という近場にあるくせに、毎日6時半には家を出て行く。新妻に絡むことならばいくらでも勤勉になれる彼は、朝を寝汚く過ごして残業を引き受けるより、前日にどれだけ眠ったのが遅くても早くに起き、夕飯をリディアと一緒に食べられるように日々頑張っている。
そんなわけで、リディアの朝も早い。エドガーがいくら眠っていてもいいといっても、寝ぼけ眼を一生懸命こすりながら首を横に振って起き出してくる。そうして夫想いの奥方は、エドガーのために一般家庭に並ぶようなささやかな朝食を作り、彼が「行ってきます」と言って出て行くのを玄関で見送るのだ。
「じゃあリディア、今日も夕食に間に合うように帰ってくるから」
「ええ、でも、お仕事が忙しいなら無理しないでね。先に食べたりしないで、ちゃんと待ってるから」
「ありがとう。リディアも、僕がいない間、気をつけて過ごすんだよ」
何で自宅にいるのに気をつけなくてはいけないのかとも思うが、広すぎる邸宅に一日も早く慣れようと探索している最中に迷子になりかけたり、分厚い絨毯に足を取られて転んだり、飾り大の繊細な彫刻に目を奪われて柱にぶつかったりした過去があるリディアは、ちょっと引きつった笑みを返すことにとどめた。そんな様子を、エドガーはおかしげに見る。
「じゃあ、行ってきます」
大きな手のひらが頬に触れるのを合図に、リディアは瞳を閉じる。唇に軽く触れる感触を残して、エドガーは仕事場に出かけていった。
その日は珍しくリディアが外出着姿で玄関に立ち、寝間着姿のエドガーがそれを見送る位置に立っていた。昨晩遅くに、カールトン教授が熱を出して大学を早退したと、ラングレー助教授から連絡を受けたのだ。
「じゃあエドガー、夕方には帰るから。昼ご飯は一応サンドイッチを作っておいたけど、足りなかったらジェフに何か作ってもらってね」
「せっかくの休日なのになあ……来客の予定がなかったら、僕もついて行くのに」
「もう、メースフィールド夫妻にはお世話になってるんだから、そんなこと言わないの。父さまもたいしたことはないみたいだし、あなたまでわざわざ来ることはないわ」
「ひどいな。家族なんだから、心配するのは当然だろ?」
「気持ちだけ、父さまに届けておきます。あなたのお見舞いは大げさすぎるもの」
子どものようにむくれた顔をするエドガーに、リディアは笑って手を伸ばす。えい、とゆるく頬をつねった。くすぐったそうに笑うエドガーに引き寄せられて、出かけると言っているのに彼の腕の中に収まってしまう。
「リディア、行ってきますのキスは?」
「………行ってきます、は、あたしよ?」
「うん。だから、リディアからのキス」
手持ち無沙汰にエドガーの服に触れながら見上げるリディアを、彼は実に楽しそうに覗き込む。予想外のことを言われたリディアは、ぽかんとした顔のまま固まってしまった。
「新婚夫婦としてさ、出かける前の挨拶は必須だろ?」
にこにこしながら抱きしめる腕の強さを強めてくるエドガーに、リディアは逃げ場を失った気分になる。固まってしまったリディアのことでさえ彼は愛おしげに見守るものだから、リディアから動かなければいつまでもこのままだ。じわじわと頬に熱が集まるのがわかる。
でもだからといって、自分からキスだなんて、………したことはあるけれど、改めてねだられると羞恥心がかって動けない。
結局顔を赤くしたリディアが玄関の扉から外に出たのは、それからたっぷり10分経った後だった。
---新婚さん
エドガーの朝は早い。仕事場は車を走らせて15分という近場にあるくせに、毎日6時半には家を出て行く。新妻に絡むことならばいくらでも勤勉になれる彼は、朝を寝汚く過ごして残業を引き受けるより、前日にどれだけ眠ったのが遅くても早くに起き、夕飯をリディアと一緒に食べられるように日々頑張っている。
そんなわけで、リディアの朝も早い。エドガーがいくら眠っていてもいいといっても、寝ぼけ眼を一生懸命こすりながら首を横に振って起き出してくる。そうして夫想いの奥方は、エドガーのために一般家庭に並ぶようなささやかな朝食を作り、彼が「行ってきます」と言って出て行くのを玄関で見送るのだ。
「じゃあリディア、今日も夕食に間に合うように帰ってくるから」
「ええ、でも、お仕事が忙しいなら無理しないでね。先に食べたりしないで、ちゃんと待ってるから」
「ありがとう。リディアも、僕がいない間、気をつけて過ごすんだよ」
何で自宅にいるのに気をつけなくてはいけないのかとも思うが、広すぎる邸宅に一日も早く慣れようと探索している最中に迷子になりかけたり、分厚い絨毯に足を取られて転んだり、飾り大の繊細な彫刻に目を奪われて柱にぶつかったりした過去があるリディアは、ちょっと引きつった笑みを返すことにとどめた。そんな様子を、エドガーはおかしげに見る。
「じゃあ、行ってきます」
大きな手のひらが頬に触れるのを合図に、リディアは瞳を閉じる。唇に軽く触れる感触を残して、エドガーは仕事場に出かけていった。
その日は珍しくリディアが外出着姿で玄関に立ち、寝間着姿のエドガーがそれを見送る位置に立っていた。昨晩遅くに、カールトン教授が熱を出して大学を早退したと、ラングレー助教授から連絡を受けたのだ。
「じゃあエドガー、夕方には帰るから。昼ご飯は一応サンドイッチを作っておいたけど、足りなかったらジェフに何か作ってもらってね」
「せっかくの休日なのになあ……来客の予定がなかったら、僕もついて行くのに」
「もう、メースフィールド夫妻にはお世話になってるんだから、そんなこと言わないの。父さまもたいしたことはないみたいだし、あなたまでわざわざ来ることはないわ」
「ひどいな。家族なんだから、心配するのは当然だろ?」
「気持ちだけ、父さまに届けておきます。あなたのお見舞いは大げさすぎるもの」
子どものようにむくれた顔をするエドガーに、リディアは笑って手を伸ばす。えい、とゆるく頬をつねった。くすぐったそうに笑うエドガーに引き寄せられて、出かけると言っているのに彼の腕の中に収まってしまう。
「リディア、行ってきますのキスは?」
「………行ってきます、は、あたしよ?」
「うん。だから、リディアからのキス」
手持ち無沙汰にエドガーの服に触れながら見上げるリディアを、彼は実に楽しそうに覗き込む。予想外のことを言われたリディアは、ぽかんとした顔のまま固まってしまった。
「新婚夫婦としてさ、出かける前の挨拶は必須だろ?」
にこにこしながら抱きしめる腕の強さを強めてくるエドガーに、リディアは逃げ場を失った気分になる。固まってしまったリディアのことでさえ彼は愛おしげに見守るものだから、リディアから動かなければいつまでもこのままだ。じわじわと頬に熱が集まるのがわかる。
でもだからといって、自分からキスだなんて、………したことはあるけれど、改めてねだられると羞恥心がかって動けない。
結局顔を赤くしたリディアが玄関の扉から外に出たのは、それからたっぷり10分経った後だった。
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伯爵と妖精パロ、えせ兄妹より。
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---えせ兄妹
「エドガー!」
可愛らしい呼び声につられるようにして読んでいた本から顔を上げると、つい最近“妹”になった小さな少女が自分の方に一生懸命走ってくるのが見えた。
元気で、太陽の光に当たるのが大好きなリディアがエドガーの元へ嬉しそうに走ってくる時は、たいていドレスの裾は汚れ、手には綺麗な花や木の実を持っているのだが、今日はなんだか様子が違う。
庭に置いたロッキングチェアに寝そべっていたエドガーの元へ、にこにこしながらやってきた彼女のドレスには小さなエプロンがつけられ、手には少々不格好ながらも、香ばしい匂いを漂わせているクッキーがのせられた皿を持っていた。
「エドガー、見て、あたしが作ったの!」
ずい、と満面の笑顔で差し出されたクッキーは、つまり「食べてみて」ということなのだろう。まだできたばかりの“家族”が彼にくれる温もりに完全に慣れられないエドガーだが、この笑顔を曇らせるのは忍びないと思う。だから唇の端を持ち上げて、生来の穏やかな声音で彼女に応じる。
「リディアが作ったの? すごいな、よくできてる。もらっていいの?」
「うん!」
一つ手に取り、口に運ぶ。さくさくとした食感を味わいながら、エドガーは傍らで目をきらきらさせているリディアをちらりと見た。
彼女はエドガーによく懐いている。そして純粋に、率直に、その好意を彼に与えてくれる。公爵家の嫡男であるエドガーには今まで触れる機会がなかった綺麗な心。それを映したようにきらきら光る金緑の瞳。じっと見つめていると、わけもなく泣きたくなってしまいそうなリディアの瞳から目を逸らさないまま、エドガーは柔らかく笑った。
「おいしい。焼きたてをわざわざ持ってきてくれたんだね」
ありがとう、と、最近覚えた仕草で彼女の頭を撫でると、リディアは頬を紅潮させて、心底嬉しそうに笑った。つられるようにして、エドガーも笑う。作り物でない、無邪気な顔。もっと食べてと皿を差し出しながら、リディアはその笑顔をにこにこしながら見つめるのだった。
「エドガー、ちょっといいかしら?」
“家族”の義務を果たすかのように律儀に就寝の挨拶をしに来たエドガーを、アウローラはなにげない仕草で呼び止めた。首を傾げるエドガーに、こっちへいらっしゃいなと、自分が座っているソファの横を示す。エドガーは座らずに、指さされたソファの前に立った。
アウローラはそのことには触れず、ちょっと困ったような顔をして首を傾げた。
「昼間、リディアがあなたにクッキーを届けに行ったと思うんだけど」
「ええ、いただきました」
「ごめんなさいね、あの………辛かったでしょ?」
ばつが悪そうにエドガーを見上げてくるアウローラが、悪戯が見つかった時のリディアの様子に何となく似ていて、親子なんだなあとふと思う。思ったら、頬が少し緩まった。
「おいしかったですよ」
「本当に、ごめんなさい! ちゃんと見てたつもりなんだけど、あの子、砂糖と塩を間違えちゃって……気付いたの、あなたに持って行った後だったのよ。にこにこしながら帰ってきたから何も言わなかったんだけど。お皿の中身、あなたが全部食べてくれたのね?」
「一生懸命に作って、わざわざ焼きたてを持ってきてくれましたから」
ソファに座ったままのアウローラは、ほんの少し高い位置にあるエドガーの瞳をじっと見つめる。色が違っても、やはり親子だけあってそっくりだなと思ってしまうと、また頬が緩んで、穏やかな顔つきになる。アウローラはそれを見て、目を細めて微笑むと、おもむろに立ち上がってエドガーを抱きしめた。
「嬉しいわ。優しい子ね、ありがとう」
突然のことに瞬きを繰り返すエドガーの頬にキスをして、軽やかな動作で手を離す。
「お休みなさい、エドガー。良い夢を」
「……お休みなさい」
今度はちゃんと成功作を食べさせてあげるから、という声を背後に聞きながら、エドガーはこの家に漂う優しすぎる空気に戸惑い、不思議な高揚感と、泣きたくなるような胸苦しさを感じていた。
---えせ兄妹
「エドガー!」
可愛らしい呼び声につられるようにして読んでいた本から顔を上げると、つい最近“妹”になった小さな少女が自分の方に一生懸命走ってくるのが見えた。
元気で、太陽の光に当たるのが大好きなリディアがエドガーの元へ嬉しそうに走ってくる時は、たいていドレスの裾は汚れ、手には綺麗な花や木の実を持っているのだが、今日はなんだか様子が違う。
庭に置いたロッキングチェアに寝そべっていたエドガーの元へ、にこにこしながらやってきた彼女のドレスには小さなエプロンがつけられ、手には少々不格好ながらも、香ばしい匂いを漂わせているクッキーがのせられた皿を持っていた。
「エドガー、見て、あたしが作ったの!」
ずい、と満面の笑顔で差し出されたクッキーは、つまり「食べてみて」ということなのだろう。まだできたばかりの“家族”が彼にくれる温もりに完全に慣れられないエドガーだが、この笑顔を曇らせるのは忍びないと思う。だから唇の端を持ち上げて、生来の穏やかな声音で彼女に応じる。
「リディアが作ったの? すごいな、よくできてる。もらっていいの?」
「うん!」
一つ手に取り、口に運ぶ。さくさくとした食感を味わいながら、エドガーは傍らで目をきらきらさせているリディアをちらりと見た。
彼女はエドガーによく懐いている。そして純粋に、率直に、その好意を彼に与えてくれる。公爵家の嫡男であるエドガーには今まで触れる機会がなかった綺麗な心。それを映したようにきらきら光る金緑の瞳。じっと見つめていると、わけもなく泣きたくなってしまいそうなリディアの瞳から目を逸らさないまま、エドガーは柔らかく笑った。
「おいしい。焼きたてをわざわざ持ってきてくれたんだね」
ありがとう、と、最近覚えた仕草で彼女の頭を撫でると、リディアは頬を紅潮させて、心底嬉しそうに笑った。つられるようにして、エドガーも笑う。作り物でない、無邪気な顔。もっと食べてと皿を差し出しながら、リディアはその笑顔をにこにこしながら見つめるのだった。
「エドガー、ちょっといいかしら?」
“家族”の義務を果たすかのように律儀に就寝の挨拶をしに来たエドガーを、アウローラはなにげない仕草で呼び止めた。首を傾げるエドガーに、こっちへいらっしゃいなと、自分が座っているソファの横を示す。エドガーは座らずに、指さされたソファの前に立った。
アウローラはそのことには触れず、ちょっと困ったような顔をして首を傾げた。
「昼間、リディアがあなたにクッキーを届けに行ったと思うんだけど」
「ええ、いただきました」
「ごめんなさいね、あの………辛かったでしょ?」
ばつが悪そうにエドガーを見上げてくるアウローラが、悪戯が見つかった時のリディアの様子に何となく似ていて、親子なんだなあとふと思う。思ったら、頬が少し緩まった。
「おいしかったですよ」
「本当に、ごめんなさい! ちゃんと見てたつもりなんだけど、あの子、砂糖と塩を間違えちゃって……気付いたの、あなたに持って行った後だったのよ。にこにこしながら帰ってきたから何も言わなかったんだけど。お皿の中身、あなたが全部食べてくれたのね?」
「一生懸命に作って、わざわざ焼きたてを持ってきてくれましたから」
ソファに座ったままのアウローラは、ほんの少し高い位置にあるエドガーの瞳をじっと見つめる。色が違っても、やはり親子だけあってそっくりだなと思ってしまうと、また頬が緩んで、穏やかな顔つきになる。アウローラはそれを見て、目を細めて微笑むと、おもむろに立ち上がってエドガーを抱きしめた。
「嬉しいわ。優しい子ね、ありがとう」
突然のことに瞬きを繰り返すエドガーの頬にキスをして、軽やかな動作で手を離す。
「お休みなさい、エドガー。良い夢を」
「……お休みなさい」
今度はちゃんと成功作を食べさせてあげるから、という声を背後に聞きながら、エドガーはこの家に漂う優しすぎる空気に戸惑い、不思議な高揚感と、泣きたくなるような胸苦しさを感じていた。
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