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伯爵と妖精、オリジナルなど。コメント等ありましたらお気軽にどうぞv 対象年齢はなんとなく中学生以上となっております(´v`*)
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続、というか、こちらが本来書こうと思っていたお話です^^
前回上げたものは、時間がなくてさわりしか書けませんでした……(えへ)
ずっと書く書く言っていた、エドガーがちびにゃんこに距離を置かれる原因になったお話です。といっても、いろいろと矛盾がありますので、これはこれとして楽しんでいただくのがいいかな、と思います><
とか言いつつ猫部屋閉鎖してしまったので、今現在は作品が見れないのですが(爆
また時間見つけて、とりあえず管理人の作品だけサイトの方にアップしたいと思います。変なタイミングで変なのアップしてすみません…!

ひとつの記事にしては長めの、ちびにゃんことエドガーのお話です^^


+++


 送られてきた手紙に目を通しながら、エドガーは秀麗な眉を、つ、とひそめた。
 送り主はアシェンバート伯爵家の領地のひとつ、イギリスの南部にある、ファハムという村の長からだった。
 先日の大雨で、領地の境界線を決める川が氾濫した。それに乗じて隣接する領主が、故意にこちらの領地を浸食するように、新しい堤防を作ろうとしているらしい。川の周囲は閑散地だし、別に辺境の領地が数エーカー小さくなろうとも大した問題ではないと思っている。ただしそれが、自然が新たに敷いた境界線ならば、の話だけれど。
「僕のものに手を出そうなんて、いい根性をしている」
 確か、領主はなんとかという男爵だった。爵位はエドガーよりも低いけれど、外国帰りの若造と、何かとこちらを挑発する態度を取ってくる男だ。貴族院では数々の有力な大貴族と親交を持っているため、エドガーも煩わしく思いながら粗末な扱いをすることができずにいたのだけれど。
「飛んで火に入る、かな」
 領地が危機に遭っているという報せにもかかわらず、エドガーは楽しそうにくすりと笑む。さあ、どうしようかな、と呟く声はひどく楽しげだった。
 けれどふと、我に返る。これを機に男爵を追い落とすことに迷いはないのだけれど。
「リディアは……連れて行けないよな」
 考えるまでもないことだけれど、思わず呟く。ファハムまで行くとなると、往復で最低3日はかかる。騒動を片付けるのにかかる時間を考えると、だいたい1週間というところだろうか。
 大丈夫だろうか。
 ベルを鳴らして、レイヴンを呼んだ。
「失礼します」
「レイヴン、リディアは?」
「30分前にミルクをお持ちしましたので、今頃はお休みになっているかと」
「お前を見て、リディアは逃げた?」
「いえ……ミルクだとわかると、寄ってらっしゃいました」
 へえ、とエドガーは声を上げる。レイヴンには初めから、メイドたちに対してほど強い警戒心は持っていなかったけれど、自分から寄って行くだなんてことをする素振りもなかったのに。
「ずいぶん慣れてきたみたいだね」
「そうでしょうか」
「うん、じゃあお前にリディアのことを任せようかな」
 微かに首を傾げるレイヴンに向かって、エドガーはにっこりと笑いかけた。
「ファハムで問題が起こってね。解決のために1週間ほど邸を空けるから、その間、リディアのことを頼んだよ」


 *


 頬を優しくつつかれた。くすぐったくて、んむんむと口元を歪ませると、くすりと笑う音が聞こえる。
 なんとなくその気配が慕わしくて、リディアはうっすらと目蓋を開いた。まだ暗い室内の中、見慣れた金色がうっすらと白く浮かび上がる。何度か目を瞬かせると、その下に優しい笑みを浮かべたエドガーの表情が見えた。
「リディア」
「………みぃ」
 眠いの、という多少の抗議を含みながら、呟くように返す。大きな手のひらに優しく撫でられて、リディアはうっとりと瞼を閉じた。
 そのまままた眠りの淵に落ちていきそうなところへ、エドガーの柔らかなテノールが囁きかける。
「少し、出かけてくるね。レイヴンの言うことを聞いて、いい子にしているだよ」
 出かける? なら、今日の朝と、もしかしてお昼も、一緒にごはんを食べることはできないのだろうか。エドガーに食べさせてもらう蜂蜜を、とても楽しみにしてるのに。
 みう、と音にならない鳴き声を上げる。それを受けてかどうか、愛してるよ、という囁き声と一緒に、優しい感触が額に落ちた。
 ああ、行ってしまう。連れて行ってくれればいいのに。
 リディアはうとうとまどろみながら、出会ったばかりの、一日中一緒に入れた時のことを、ほんの少し寂しい気持ちで想い出していた。



 ぱちりと目を開けるとエドガーの姿はどこにもなく、部屋の中はずいぶんと明るくなっていた。うん、と伸びをして、リディアと一緒にクッションに埋もれている蜂蜜の瓶を確認する。エドガーからもらった、これはリディアの宝物だ。誰も取らないよ、とエドガーには言われたけれど、毎朝確認しては、ほっとしているリディアだった。
「みう」
 リディアの寝相で乱れてしまったクッションを整えて、蜂蜜の瓶を丁寧にそこにおろす。ひとりで持つと少し重いけれど、その重さもリディアには嬉しかった。
 耳の裏を軽く握った手でかいかいと撫でて、清潔なシーツのおかげでどこも汚れていないほっぺもぐるぐるとこする。最後に尻尾に毛玉ができていないかを確認して、リディアは元気よくベッドから飛び降りた。
 起きたら朝のご飯だ。ミルクが大好きなのはもちろんだけれど、ふわふわした黄色い卵や、柔らかくて薄く塩味のきいている緑の野菜もそれなりに好きだ。食べ慣れないものばかりで最初は警戒しいしい食べていたけれど、エドガーがひとつひとつ教えてくれるから、だいぶ食べ物の味と名前を覚えたと思う。
 扉がノックされて、リディアはぱっとソファの影に走った。たいていはエドガーが来るけれど、たまにリディアを熱い水につけようとしたメイドさんが来るから、油断はできない。
「………み?」
 けれどやってきたのはエドガーでもメイドさんでもなくて、色の濃い肌を持つ、エドガーの「家族」だった。リディアと一緒の、リディアよりも前にいる、エドガーの「家族」。
 リディアは人間が苦手だけれど、レイヴンのことはそんなに怖くない。エドガーのように柔らかく笑いはしないけれど、レイヴンはとても静かで、リディアを怖がらせることはしないのだ。
 だから食事を低いテーブルの上に並べていくレイヴンのそばへ、リディアは自分から近づいていく。ちょこん、と整えられたクッションの上に座りながら、夜中に来たエドガーの言葉を想い出した。
 そういえば、少し出かけてくると言っていたっけ。
 じゃあ今日は、窮屈な服に着替えなくてもいいのかな。
 少し寂しく思いながらも、そんなことを思いつき、リディアはぴょこりと尻尾を跳ねさせる。温かなミルクが小さなカップに注がれたのを合図に、リディアは行儀を無視した動作でおいしい朝食を堪能した。



 いつの間にか朝になっていた。
 レイヴンが運んできた夕飯を食べた後、一日中着ていた寝間着を別の寝間着に取り替えてから、リディアはエドガーが部屋に来るのをまだかなまだかなと思いながら待っていたのだけれど。
「……みうー?」
 しかも、寝ていた場所はベッドではなくて、扉の近くのソファの上だ。毛布は掛けられているのに、どうしてここで起きるのだろう。エドガーはいつも、リディアをベッドまで運んでくれるのに。
 頭の上に疑問符を浮かべながら、リディアはとてとてと毛の長い絨毯の上を歩き、ベッドの上を覗き込む。よかった、蜂蜜はちゃんとある。
 ほっと頬を緩ませてから、絨毯にぺたりと座り込む。そうして軽く手を握り、毎朝の習慣である身繕いをせっせと始めるのだった。
 扉をノックする音が響いて、リディアはソファの影に駆け寄った。そうしながら、きちんと隠れることをせずに、身を乗り出して扉を伺う。エドガーだろうか、メイドさんだろうか。
 入ってきたのは、レイヴンだった。
 知らず、リディアの耳が垂れる。ほんのちょっと項垂れて、けれど朝食のおいしそうな匂いにつられてふらふらとクッションの上に座り込んだ。
 テーブルの上に整然と皿が並べられていくのを眺めながら、リディアはもじもじと身じろぎする。エドガーはどこにいるのだろう? カップにミルクを注いだレイヴンが立ち上がろうとしたところで、思い切って顔を上げた。
「みう、みうー?」
 リディアから、エドガー以外の人間に話しかけるのは初めてだ。
 緊張しながら、じっとレイヴンを見つめる。彼は深い緑色の目をひとつゆっくりと瞬かせただけで、何も答えてくれない。
 しゅん、と項垂れて、リディアはふわふわした真っ白なパンに手を伸ばした。あらかじめ切れ込みにバターを挟んであるそれを、もぐもぐと食べる。
 レイヴンが部屋から出て行ってひとりになった後も、リディアはしつこいくらいに柔らかなパンを咀嚼し続けていた。確かに食欲をそそる匂いなのに、何を食べても、何かを食べている気になれなかった。


 *


 エドガーが出かけてから3日目の朝、レイヴンは一通りトムキンスに言いつけられた雑務をこなした後、食事を持ってリディアの部屋へ向かった。
 リディアの体内時計はひどく正確で、毎朝5分と違わずに同じ時間に起き出している。彼女の世話をするのに、この点だけはやりやすくて、レイヴンは密かに安堵していた。
 ノックをする前に一呼吸置いて、そっと部屋の中の気配を伺う。部屋の中にはリディアしかいないのだから、こんなさぐるような真似はしなくてもいいのだが、これがレイヴンの習い性なのだから仕方がない。
 呼吸をするのと同じ自然さで気配を伺って、彼はふと部屋の中に不自然さを感じた。もう起きているはずの時間なのに、中でひとの動く気配がしない。
 眠っているのだろうか、と思い、少し控えめにノックをしてから扉を開けて、目を瞬かせる。
 リディアはちゃんと起きていた。いつものようにソファの影に隠れるのではなく、ソファの上にちょこんと座って、足と尻尾をぷらぷらと揺らしている。顔は俯き気味で、どこか悄然としている様子だった。
 そういえば、昨晩からどことなく大人しかったような気がする。レイヴンは他人の感情の機微に疎いから、はっきり言葉で示されないとなかなか気付けないのだけれど。
 ちらり、とリディアが視線を上げてレイヴンを見る。けれどすぐに逸らされて、うに、と不明瞭な呟きを落とした後、足も尻尾もぱたりと動きを止めてしまった。
 もしかして、体調が悪いのだろうか。テーブルの上を整えて、ミルクを注いでもリディアが動かないのを見て、レイヴンは密かに焦る。リディアに何かあったら、エドガーが落胆するだろう。
「―――リディアさん」
 ぱっと、リディアが顔を上げた。レイヴンを真っ直ぐに見る瞳はまん丸で、どうしてこんなに驚いた顔をしているのだろうと内心首を傾げる。
 リディアと言葉を交わすのはこれが初めてだということに気づかないまま、レイヴンは低姿勢を保って淡々と言葉を紡いだ。見下ろしたら怯えから、話しかける時は目線の高さを合わせるように、と、事前にエドガーに教えてもらっておいてよかったと思う。
「どこか、お悪いのですか?」
 目をぱちぱちと瞬かせていたリディアは、みう、と一言小さく鳴いた。それを皮切りに、支えていたものがとれたかのように、小さな喉から高い鳴き声がひっきりなしに上がる。
「みう、みうみ、みー、みうーう?」
「……あの」
「みうみ、みうう? みううー、みううー?」
 何かを尋ねられている。それはわかるけれど、何を尋ねられているのかがわからない。レイヴンは途方に暮れてしまった。
「すみません、私にはわかりません」
「み……」
 しょぼん、と、リディアが項垂れた。焦りながらもどうしたらいいかわからず、レイヴンは必死に考える。こういう時、主人はどうしていたっけ。
 考えて、そもそもエドガーは、リディアの問いかけに対して返事を窮することがなかった、ということを想い出した。
「……リディアさん、どうぞお召し上がりください。温かい方が、おいしいと思います」
 リディアは覇気のない瞳で朝食を見た。しばらく沈黙が続いた後、のろのろとした動きでクッションの上に移動する。小さな手にパンを持ったのを見て、レイヴンは少しほっとした。
 その日の朝食は、彼女にはとても珍しいことに、半分以上が皿の上に残ったままだった。



 リディアが食事を拒否するようになったのは、それからだった。
 覇気がないながらも、レイヴンよりも子どもの扱いに慣れたメイドがどうにか食べさせようと姿を現すと、彼女は食事を摂っていないとは思えないほど俊敏な動作で逃げ回る。かといってレイヴンではリディアに食事をさせるうまい方法がわかるはずもなく、また教えられても実行するスキルがなく、とうとうリディアが食べ物に手をつけないまま丸一日が過ぎてしまった。
 エドガーが領地に出かけてから、まだ4日だ。最低でもあと1日2日は帰らないだろう。エドガーが帰ってくるまで策を講じずに手をこまねいているのはまずい。そう考えたレイヴンは、意を決して強硬手段に出ることにした。
 とっぷりと日の暮れた夕方、明かりはもちろん点けているけれど、リディアの部屋の中は薄暗い。ノックをして扉を開けると、リディアは入ったところからすぐに見えるソファの上に腰掛けていた。ちょっと警戒した仕種で顔を上げて、入ってきたのがレイヴンだけとわかると、そのままソファの上から動かない。
 レイヴンは、食事をトレイに乗せたままテーブルの上に行き、リディアの前でそっと屈んだ。そうっとリディアに手を伸ばすと、彼女は驚いたように顔を上げたけれど、逃げる様子はなかった。
 リディアは、レイヴンからは逃げない。それを逆手に取るような真似をすることはいけないことのような気がするけれど、レイヴンには他にどうすればいいのかがわからない。
「……すみません、リディアさん」
「み?」
 細心の注意を払って、エドガーがしていた仕種を想い出しながら、リディアを抱き上げる。みう、と少し驚いたような鳴き声が上がったけれど、とくに警戒している様子ではないことが意外な気がした。出会った最初は、レイヴンの姿を認めた途端に全身を緊張させて固まっていたというのに。
「入ってください」
 けれどそれも、開けっ放しの扉からメイドが入ってくるのを認めるまでだった。
 なるべく力を入れないようにとリディアを抱えたレイヴンだけれど、唐突に暴れだそうとしたリディアを抑えるために、謝って傷つけてしまわないように苦心しながら、腕に力を入れる。
 抗議をするように、もしかしたら怯えるように鳴くリディアに、大丈夫です、と淡々とした声で呼びかけた。しかしエドガーがそう言えば一気に安心するリディアだけれど、レイヴンの言葉では効果がない。
「そんなに暴れないでください、お嬢さま。ご飯を食べさせてあげるだけですよ。ほら、おいしそうな匂いでしょう? お嬢さまのお好きなお魚もありますよ」
 メイドが、丸い木製のスプーンにほぐした魚の身をのせてリディアの口元に運ぶけれど、彼女は暴れるばかりで、これでは食べてくれそうにない。困りましたわね、と呟くメイドよりも確実にレイヴンの方が困っていたけれど、生憎彼の顔には微塵も表れなかった。
「リディアさん……」
 途方に暮れたように呟くレイヴンの腕に、リディアは小さな爪を一生懸命立てていた。
 最後に爪を切ったのは、5日前だ。少し伸びた爪がレイヴンの上着に引っかかり、かすかな皺を作る。レイヴンは全然痛くないけれど、興奮したリディアは力任せに爪を立てていた。このままではリディアの小さな爪が剥がれてしまうのではないだろうかと、ひやりとする。
 手を離すべきか、と迷っている内に、部屋を見回していたメイドがふと明るい声を上げた。
「お嬢さまは蜂蜜がとてもお気に入りだと聞きました。あれがそうですね」
 ぴ、とリディアの耳が立った。一瞬動きが止まったのを訝しく思ったレイヴンが腕を緩めた途端、今までの比ではなく、リディアが身を捩る。
 思わずそのまま解放してしまったレイヴンの膝を踏みつけて、リディアが綺麗に跳び上がった。ひどく怒ったような声を上げながら、一直線にメイドへと飛びつく。蜂蜜が入っている瓶の蓋を開けようとしていたメイドは、悲鳴を上げてそれを取り落とした。
 テーブルに当たり、派手な音が上がる。大した高さでもなかったため、瓶が割れることはなかったけれど。

「……………み」

 中途半端に緩められた蓋が落ちた衝撃で外れ、倒れた瓶からは止めどなく琥珀色が流れ出していた。
 とろとろ、とろとろ。流れる様を見て、焦った声を上げたのはメイドだった。今すぐに片付けます、と瓶を起こし、零れた蜂蜜をすくい取ってゴミ入れへ捨てる。手際よくどんどん片付けられていく蜂蜜をリディアは呆然と眺めていた。
 なにか、非常にまずいことが起こったような気がする。レイヴンはそう感じながら、考えるのをやめて、直感で行動した。
 中身が半分以下に減ってしまった瓶にしっかりと蓋をして、外側を綺麗に拭う。そうした上で、蜂蜜の瓶をリディアに渡した。
 手を取って持たせると、焦点の合っていなかったリディアの瞳がゆるゆると動いた。緩慢な動作で蜂蜜を抱え、感情が抜け落ちてしまったかのような表情の中で、じわじわと涙が盛り上がる。
 冷や汗をかきながらどうすることもできずに固まるレイヴンの前で、リディアはくるりと踵を返した。部屋の奥、明かりの届かない影の中へ入っていき、身じろぎする気配すら消える。
 泣き声は、ほんの少しも聞こえてこなかった。


 *


 ずっとずっと、暗い場所にいた。
 暗くて汚くて冷たくて、けれどただ生きなくては、と思う毎日の中では、そんなことには気づいていなかった。
 路地裏を駆けていた頃、リディアが持っていた感情らしい感情は、恐怖だけだ。主に、人間に対しての。リディアは人間と似ているのに、人間とは違う形をしているから、ひどく罵られて、虐げられた。
 鉢合わせるたびに追いかけられて、時には殴られ、蹴られたりもした。痛さやつらさもあったけれど、何よりも怖かった。あの怒声が、怒気が、怖かった。
 けれどそれを拭ってくれたのも人間だった。
 エドガーは、人間なのに怖くなかった。それどころかすごく優しくて、すごくすごく温かかった。だから、安心していた。エドガーは人間なのに、安心してしまった。
 忘れていた。人間は嘘をつくのだ。
 少し出かけてくる、と言ったエドガーは、現に全然帰ってこない。毎日一緒にいたのに。家族は毎日一緒にいるのが、当たり前だと思っていたのに。
エドガーはどこ? と問いかける声に、誰も何も、答えてくれなかった。
 顔を埋めたクッションに、しとしと水分が染みこんでいく。目が壊れてしまったみたいだ。どうしても涙が止まらない。
 もう、ひとりぼっちじゃないと思ったのに。
 明るくて綺麗で温かい場所を知ってしまった、嬉しいという気持ちを知ってしまったリディアだから、あの路地裏にまた戻らなくてはいけないのだろうかと考えることは、とてつもない恐怖だった。
 ぎゅうっと、固い感触の瓶を抱きしめる。大切にしていたのに、壊されてしまったものだ。一気に軽くなった重さを思うと、また涙がこみ上げてくる。
 舌の上でとろける甘さも大好きだけれど、日に透かして、綺麗な色を眺めるのも大好きだった。きらきら太陽に輝く、黄金色はエドガーの色。だから、この瓶の蓋を開けていいのは、エドガーだけだったのに。
 みうみう、と小さく呻く。みうみうみう、と、だんだん感情が高ぶってきた。
 けれどリディアは、声を上げて泣く術を忘れてしまった。路地裏で声を上げて泣けば、たちまち怖い人間がやってきて、リディアをもっと恐ろしい目に遭わせたから。
 みうみう、みう、と、泣き声と呼ぶには控えめすぎる声を上げながら、リディアは静かに泣き続けた。


 *


 レイヴンからの手紙を受け取ったのは、アシェンバート邸に帰る途中の道中でのことだった。
 御者に急ぐように言い含め、エドガーは馬車の中で何度も手紙に目を通す。リディアの不調についてのことが簡潔な言葉で詳しく書かれており、最後はレイヴンらしい率直な言葉で「力不足で申し訳ありません」と謝辞が綴られていた。
 レイヴンがリディアの世話に手を焼くという予想はしていた。けれどそれは、ぼろぼろと食べかすを零すリディアを窘めるのは無理だろうな、とか、着替えの時に嫌がるリディアを宥めるのに苦労するだろうな、とか、微笑ましい困りごととしての程度でしかなかった。
 それが、リディアが食べることを拒否し、部屋の隅に蹲ったままになるとは、いったい何が起こったのか。
 レイヴンのせいではないだろう。メイドが蜂蜜を零したことも書かれているけれど、食事の拒否は、それが起こる前に始まっていたわけだから、これも原因にはならない。
 何か、取り返しのつかないことをした気がする。
 ファハムでのトラブルはすべてエドガーの望むとおりの展開となり、満足のいく結果を得られたというのに、後悔に似た苦い思いがエドガーの胸に渦巻いていた。



 馬車を急がせるだけ急がせて邸につくと、レイヴンとトムキンスに安堵した顔で迎えられた。トップハットとステッキ、外套を預かった途端に深々と頭を下げるレイヴンを制して、状況を聞く。
「リディアは?」
「お部屋で、お休みになられています。ベッドにお運びしようと身体に触れると途端に目を覚ましてしまわれるので、その、床で」
 エドガーが眉をひそめるのを見て、レイヴンはまた項垂れるように目を伏せる。息をついて、肩を軽く叩いた。
「いつから食べてないんだ?」
「一昨日からです。ミルクだけは召し上がっているようですが、固形物には手をつけていません」
「体調が悪い……というわけではないんだね?」
「動きは、ひじょうに機敏です」
 ふと、何日か前に見た、覇気が失われたかのようなリディアの大人しい瞳を想い出す。邸の暮らしに、もうずいぶんと馴染んだと思っていたけれど、考えてみればまだ1ヶ月も経っていない。急にエドガーがいなくなってしまったから、放っておかれたと思ってしまったのだろうか。
 側にいてあげればよかった。
 胸に溢れる、後悔に似たもやもやした感情の形を見つけて、エドガーはすとんと納得した。そうだ、側にいてあげればよかった。ずっとひとりぼっちだったリディアをまたひとりにさせるなんて大馬鹿だ。こんなふうにリディアが閉じこもってしまうのがわかっていたなら、男爵との小競り合いなんて放っておいたのに。
 着いた扉の前で、エドガーはレイヴンに下がるように伝えた。形ばかりのノックをして、そっと室内への扉を開ける。
 カーテンは開かれて、部屋の中は明るかった。けれど日に照らされた温かい場所のどこにもリディアの姿はない。真っ先にベッドを確認して、レイヴンの言ったとおりにそこに姿が見いだせないと、エドガーは床を見渡した。
 大して広くもない部屋なのに、一見して姿が見えないとはどういうことなのか。眉をひそめながら家具の裏を覗き込んで回ると、部屋の一番隅、ドレッサーと壁の間にできた僅かな隙間に、リディアが小さな身体をさらに小さく丸めて眠っていた。
 音を立てずに屈んで、そっと覗き込む。艶やかな髪も、ふにふにと柔らかそうな頬も、出かける前に見たリディアと変わらない。けれど閉じた瞼は赤みを帯びて、その下の微かな窪みは青紫色に黒ずんでいた。ずっと泣いていたのだろうか。痛ましくて、眉をひそめる。
「……リディア」
 手袋を外して、そっと髪を撫でる。目蓋を指の腹でなぞって、頬を手のひらで撫でて、彼女が起きないことを確認してから、被っている毛布ごとリディアの身体を抱き上げた。
 ぱちり、と、リディアの目蓋が開く。
 前置きなく現れた大きな瞳に、エドガーは思わず目を見張った。抱き上げたのは失敗だったか、と思ったが、エドガーを感情の読めない目で凝視したまま、リディアはなんの反応も示さない。
 もしかして寝ぼけているのだろうか、と首を傾げると、金糸が流れて耳元でさらりと音を立てた。それにつられたように、リディアが小さな手をエドガーの顔に伸ばしてくる。
 焦点の合っていない、感情を亡くしてしまったかのような瞳で瞬きもせずにエドガーを凝視し、本当に存在しているのかと疑うような手つきで、彼女は念入りにぺたぺたとエドガーの顔に触れた。
「リディア……?」
 ぴ、と耳が立つ。抱えた腕に、尻尾が動いた感触が当たった。
「リディア、ただいま」
 リディアがゆっくりと瞬きをした。繰り返すごとに焦点があって、じわじわと幼いかんばせに感情の色が浮かんでくる。
「ただいま……ごめんね、リディア。側にいてあげればよかった。……怖い思いを、させた?」
 みう、とリディアが鳴いた。喉に引っかかるような、少し掠れた声だった。
「みう……みう、み、みう、みうみうみう!」
 ぺしん、とリディアの手のひらがエドガーの顔面を打った。みうみう、みうみうと鳴きながら、リディアは涙をぼろぼろと零して鳴いていた。
 鳴き声がどんどん大きくなって、泣き声に変わる。癇癪のままにひとしきりエドガーをたたいたその手で、ぎゅうっとエドガーにしがみつく。
 薄汚い路地裏で、初めて彼女を見つけた時も、リディアはこんなふうに堪えていたものを吐き出すように泣いていた。
「ごめんねリディア、ごめん。大丈夫だよ、怖いことなんて、何もない。僕のリディア、ちゃんと君のもとに、帰ってくるからね」
 ごめんね、と、大好きだよ、を交互に囁きながら、小さな身体を優しく揺すってあやす。柔らかな身体が少し軽くなっている気がして、心配になった。
「……リディア?」
 かすかに強張っていた身体から完全に力が抜けて、ふにゃん、とエドガーにもたれかかる。くうくうと寝息を立て始めたリディアを抱いたまま、エドガーは日当たりのいいソファに腰を下ろした。ぐちゃぐちゃに濡れた顔をハンカチで拭ってやり、膝の上におろす。するとリディアは自分からもぞもぞと動いて、寝心地のいい場所にすっぽりと収まった。
 優しく髪を梳いてやると、耳がぴくりと動く。耳の裏をくすぐるようにして撫でると、リディアはかすかに喉を鳴らした。口角がうっすらと上がり、安らかな寝顔になったように見える。あどけない寝顔に、ほんの少し救われた心地がした。
 ベルを鳴らして、レイヴンを呼ぶ。しばらくすると、部屋の中を伺うようにして遠慮がちに姿を現した。思わず苦笑するけれど、彼がエドガーの膝の上にいるリディアを見て安堵したように見えて、頬を緩める。
「食事を用意してくれ。ミルクと……スープがいいかな。それから、瓶詰めにした蜂蜜を」
「かしこまりました」
 そっと会話を交わして、レイヴンが静かに出て行く。うにうに、と口を動かしているリディアに微笑み、動いている頬を軽くつつくと、リディアは眉をしかめてエドガーの指をぱくりとくわえた。
 そのまま赤ん坊のようにエドガーの指をしゃぶるものだから、ちょっとびっくりする。
「……さすがにお腹がすいたのかな」
 すいていなければ困るのだけれど。
 ちゅうちゅうと吸われている指はそのままに、反対側の手で優しく優しくリディアの髪を撫でた。多分、彼女は愛情にも飢えている。小さな子どもが与えられてしかるべきものを、きっと手に入れて来れなかっただろうから。
 いっぱい愛してあげよう、と思う。気まぐれで拾ってきた子猫だけれど、こんなにエドガーに心を預けて、寄りかかってくる存在を愛おしく思わないわけがない。
「まずは、ご機嫌とりをしなくちゃね」
 囁くように嘯いて、ふふ、と微笑む。
 甘いミルクに垂らす、甘い甘い蜂蜜が、彼女の機嫌を宥めてくれるといいのだけれど。


+++

こうして「あんまり信用し過ぎちゃいけない」と警戒心を抱いたリディアに、エドガーがべたべたと構おうとするので、姿を見るたびに逃げることになるのです^^
なんか苦しいな!(爆
しかしこんなに甘えて貰った後で、姿を見るたび逃げられたら、エドガーかなりショックでしょうね…(笑
おかげさまで、やっと書けました。「書いてー」と催促してくださった方、ありがとうございました!^ワ^*
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